46話「濁流の盟約」
"星の塔"を降りた後、私たちは王城の一室に割り当てられた客室へと戻っていた。
豪奢なソファに深く腰掛けたギエナは、酒の代わりに冷めた茶を啜り、机の上に広げた数枚の羊皮紙を指先で弾いた。
「いいですか、お嬢様。改めて、あんたが背負わされた"厄ネタ"の正体を整理しておきましょうや」
ギエナの表情は、いつになく真剣だった。
「ええ――お願いするわ」
「そんじゃ、僭越ながら。話は、先の大戦終結後にまで遡りまさぁ」
彼が語り始めたのは、王国を縛り付ける呪いの正体――"大星潮条約"の凄惨な実態だった。
「元々は、大戦でボロボロになった各国の生産力が戻るまで、エリダヌス連邦が食料を融通してやるって名目の、慈悲深い条約だったんでさぁ。だが、蓋を開けてみりゃあどうだ」
ギエナは苦々しく吐き捨てる。
エリダヌスは食料を売る一方で、自給率を回復させるための農具や肥料の輸出を徹底的に制限した。
それどころか、提供される種子は、一度収穫すれば次は芽吹かない"一代限りの種子"。さらに、その種を育てるにはエリダヌス特製の肥料を使わねばならず、その肥料を使い続けた土地は、在来の種を受け付けない死んだ土壌へと変質していく。
「……何それ、そんなの、ひどい……!」
「ま、"依存型肥料の罠"ってわけだ。今や王国は、エリダヌスの機嫌を損ねれば即座に餓死する家畜の群れですよ」
確かに、これならば、セファス王が国の行く末を憂い、アルフェッカの力に縋ってでも延命しようとする気持ちがよくわかる。
「……そして来月、これからの条約内容を協議する"大星潮条約首脳会議"が開かれる。ヴァルゴ、フォルナクス、ガーランド、プレアデスの四カ国に、親玉のエリダヌスを加えた五カ国の代表が集まる、化かし合いの場ですぜ」
解説を終えたギエナは、大げさに肩を竦めてみせた。
「控えめに言って、とんでもねぇ火中の栗だ。これを覚醒したばかりのお嬢様に丸投げするたぁ、あの"髪長姫"様も人が悪い」
「……わかっているわ。けれど、断る選択肢なんて最初からなかった」
私は窓の外、闇に沈む王都を見つめた。
この国を縛る首輪を緩めるには、エリダヌスという巨大な"魔女"の懐に飛び込むしかない。
「ギエナ。……エリダヌスって、どんな国なの?」
私の問いに、ギエナの動きが止まった。彼はカップを置き、声を一段と低く沈めた。
「……あそこは、海を支配する魔窟ですよ。何せ、あそこには"姫"の中でも最も強大で、最も性質が悪いと噂されるバケモノがいる」
「……姫?」
「ええ。人呼んで、"喰らってしまった人魚姫"。圧倒的な力を持つ姫たちの中でも、さらに別格の、凶悪な力の持ち主でさぁ」
「……"姫"の話なんか、もう聞きたくないっす」
不意に、部屋の隅で毛布にくるまっていたシャウルが、苛立ったように立ち上がった。彼女の瞳には、隠しきれない嫌悪と、刺すような鋭い敵意が宿っている。
「あたし、外の空気を吸ってくるっす」
彼女は苛立つように毛布を投げ捨てると、私たちの制止を待たず、乱暴に扉を閉めて部屋を出ていった。その背中に、私はスピカとは違う、彼女なりの深い傷跡を見た気がした。
「……気にしなさんな。さて、話を続けましょうや。かつて帝国は、自慢の蒸気船艦隊を率いてエリダヌスに攻め込もうとした。だが、結果は全滅。たった一人の"人魚姫"に、帝国の海軍は文字通り喰い散らかされた。以来、帝国は完全に制海権を手放したんでさぁ」
ギエナの言葉は、単なる伝説を語っているようには聞こえなかった。
「それだけ強いって、一体どんな魔法を使うのよ、そいつは」
「さあ? 力を持つかは、詳しいことはわかっちゃいねぇ。奴が暴れた後には何も残らず、生還した者の記憶も、記録も、一つとして残らねえからだ」
「それが、"人魚姫"の魔法なんじゃないの?」
彼はそこで、嘲るような乾いた笑いを挟んでから。
「違いますぜ、お嬢様。簡単な話だ、記憶も記録も、取った奴が生き残らなければ残らねえ――」
思わず、戦慄した。つまり、それは鏖殺を意味している。
"人魚姫"――そこまで、凶悪な相手なのか。
「唯一わかっているのは、奴が"人魚"と呼ばれる半魚人の軍団を生み出す力を持っているってことだけだ。人間より遥かに強靭な軍勢を率いる彼女が海上にいる限り、四カ国が束になっても相手にすらなりゃしねぇ」
"喰らってしまった人魚姫"。
その名を聞いただけで、背筋を冷たい水が這うような感覚に襲われた。
私は、自分が任された任務の重み、そしてその先に待ち受ける死の香りを、ようやく真に自覚した。
「……お父様が聞いたら、腰を抜かすでしょうね」
「へっ。腰を抜かすどころか、娘を死地に送り出したって知ったら、グラスベル伯は泡吹いて倒れますぜ。……死出の旅への片道切符ってとこだね、こりゃ」
ギエナは笑えない冗談を吐き、再び空のカップを弄び始めた。
◆◇◆
部屋を飛び出したシャウルは、夜の王都を慣れた足取りで進んでいた。
豪奢な大通りを避け、街灯の届かない、澱んだ空気の漂う裏路地へと入っていく。
崩れかけたレンガの影。そこで、外套を深く被った一人の男が待っていた。
「……遅かったな」
「うるさいっす。お嬢様たちの目が光ってるんだから、仕方ないでしょ」
シャウルは周囲を警戒しながら、懐から小さく折り畳まれた紙切れを取り出し、男に手渡した。
男は手近なランプの灯りでその文字を追い、満足げに口元を歪めた。
「……ノクティア・グラスベルが全権大使として首脳会議へ。なるほど、"塔の姫"の推薦か」
「あたしの仕事は、ここまでっす」
男は懐から革袋を取り出すと、その中から数枚の銀貨をシャウルの掌に握らせた。
チャリン、という金属の音が、夜の静寂に酷く卑しく響く。
「……また頼むぞ、シャウル。我ら"人の手による王国"を取り戻すためにも、あの化け物の動向は重要だ」
男は闇に溶けるように去っていった。
シャウルは銀貨を強く握りしめ、後ろめたげに俯いた。その瞳には、ノクティアへの敵意だけではない、複雑な葛藤の光が揺れていた。
◆◇◆




