41話「ハイエナの知恵」
「ギエナ・アルファルド……?」
繰り返す私の正面で、アルトは静かに頷いた。
かつてグラスベル領には"二つの牙"があった。一つは、先日亡くなった防衛の要、"不落の獅子"タラゼド・オレオーン。そしてもう一人が、攻勢の極北と謳われた男。
幼い頃から傭兵として各地の戦場を転々としていた彼は、ある時グラスベル領に流れ着き、弱冠十六歳という史上最年少の若さで小隊長に就任したという。
先の大戦では、まだ"姫"による武装や兵器が整う前とはいえ、中隊規模の兵で帝国の一個師団を打ち破り、現在における"姫"たちにすら劣らず恐れられた存在。
アルトによるそんな伝説の紹介を聞きながら、私は目の前の男をまじまじと見つめた。
オールバックにした髪は少し乱れ、軍服からは安酒の匂いすら漂ってきそうだ。……どうしても、目の前の男とイメージが合わない。
「そんな凄い人がいるのなら、この間の戦いだって来てくれればよかったじゃない。そうすれば、スピカだって……」
「……あー、お嬢様。ギエナ殿は、その……十年前、酒の席で父上と派手な殴り合いを演じましてね。それ以来、父上の顔を見るのも嫌だと、反対側の領地境の警備についたまま……ということでして」
アルトが申し訳なさそうに補足すると、ギエナは「いやあ、おじさんも血気盛んな頃があったねえ」と、まるで他人事のように茶化してみせた。
(……なんだか最近、身の回りに急にいい加減な人間が増えた気がするわ)
私は大きな溜息を吐いた。スピカのような献身も、オレオーンのような威厳もない。しつけのなってない山猫のようなシャウルと、ハイエナのようなギエナ。
私の思考を見透かすように、ギエナの細められた視線が鋭さを増した。
「さて、話は聞かせてもらいやしたぜ。お嬢様は王城に召喚されてて、護衛にアルト小隊長を連れていきてえって話でしたね?」
「ええ。彼なら信頼できるわ」
「悪いんですが、そりゃ却下だ」
ギエナはあっさりと、そして冷酷に言い切った。
「なっ……! どうしてよ。彼は私の騎士として――」
「坊ちゃんは真面目すぎるのさ。王都ってのは、戦場以上に"嘘"と"毒"が蔓延る場所でさぁ。そんな清廉潔白な若造を連れて行ってみてくだせえや。あんた共々、王都の狐どもに骨までしゃぶられて終わりですぜ」
「でも、そんなの――」
「――お嬢様、そのおじさん、嘘は言ってないっすよ」
そう、反論しようとした私の声に被せるように、シャウルが口を開いた。
普段のとぼけた仕草が嘘のように、その言葉は鋭い。
「へへ、そっちの嬢ちゃんはわかってるみてぇで何よりだ」
「……納得いかないわ。私が、そう簡単に呑まれると思って?」
「……へえ、なら、一つ試してみるとしやしょう」
私の前に、ギエナは一枚の古びた羊皮紙を突きつけた。そこには、切り立った崖に囲まれた、グラスベル領北の果て――"カストル渓谷"の地図が記されていた。
「試験ですぜ。お嬢様。……敵軍は中隊から大隊規模、約五百名。その先遣隊五十名が、この狭い渓谷に入ろうとしている。あんたの手元には百名の守備隊。……どうやって、ここを切り抜けましょう?」
私は地図を凝視した。地形、戦力差、そして私自身の持ち札。
頭の中で、物語をなぞる。少しの思考の後、私は迷わず、指を差した。
「『ヘンゼルとグレーテル』。お菓子の家に、連中を誘い込むわ」
「ほう? 詳しく聞かせてもらいやしょう」
「……渓谷の奥にわずかな囮を配置し、先遣隊を誘導。彼らが奥まった地点に達した瞬間、崖の上から岩と火薬を投下し、一気に焼き払う。その爆音で後続の本隊をパニックに陥らせ、混乱に乗じて側面から強襲。各個撃破する。これなら、確実に殲滅できるはずよ」
私の回答を、ギエナは鼻で笑った。
「犠牲者は?」
「……二割程度ね。勝利のための必要経費だわ」
「お嬢様。……おじさんに言わせりゃ、それは零点ですぜ」
ギエナは指先で地図の"入り口"を叩いた。
「おじさんなら、あえて殺さない。入り口に狙撃兵を潜ませて、進軍が止まったところで、弩か何かで全員の"足"を射抜く。……急所は外して、二度と歩けない傷を負わせるんです。あるいは、罠でもいいですがね」
「……負傷者を増やすというの?」
「明察。死体はただの物だが、生きて叫ぶ負傷者は本隊にとって最大の"重荷"になるんでさぁ。一人運ぶのに二人の兵が割かれ、物資も医薬品も食糧も、負傷者のために瞬く間に枯渇する。戦う前に、中から腐り落ちるって寸法です」
ギエナの言葉には、戦場の泥を啜ってきた者特有の、冷徹なまでの合理性があった。
「お嬢様の作戦じゃあ、火薬の準備に手間がかかるし、無駄に味方の犠牲も出る。おまけに地形で崖を崩しちまえば、その後のこっちの進軍はどうなるっていうんです」
「――それは」
私は、それ以上言葉が紡げない。彼の言うことは何もかもが正しく聞こえた。
「……あんたには"狡さ"が足りない。横着をして、最低限の力で勝つ、ハイエナの如き狡猾さがね」
狡さ。
それは、綺麗な物語の中には決して登場しない要素だった。
「……なら、どうすればいいの。私には、あなたのような経験はないわ」
私が唇を噛んで問い返すと、ギエナは空のカップを放り投げ、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「そうさなぁ、まあ、幸運なことに、この砦の修復作業は、アルトの坊ちゃん一人で回ってますからねぇ。おじさんは手が空いてるんですわ」
「……それって、つまり?」
部屋の隅で、シャウルがげえっと舌を出したのが見えた。私は顔にこそ出さないようにしたが、同じ気持ちだ。
「つまり――おじさんがついて行ってやる、ってことですぜ、お嬢様。必要でしょう、この"狡さ"がよ」
アルトが、視界の端で卒倒するのが見えた。ああ、いいな。私も倒れてしまえば楽なのに。
そんな冗談を、口にする気力もなく。私は天を仰ぐのだった。




