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37話「硝子の誓約」

 レグルス砦が陥落の危機を脱してから、数日が過ぎた。


 辺境の空は皮肉なほどに高く、澄み渡っている。戦場の熱も、焦げ付いた鉄の臭いも、この穏やかな日差しの中では嘘のようだった。けれど、グラスベル邸を訪れた一人の青年の姿が、失われたものの重さを、残酷なまでに際立たせていた。



「――予算の承認、確かに承りました。ありがとうございます、お嬢様」



 応接室のソファに腰掛けたアルトは、私が差し出した書類を受け取り、深く頭を下げた。


 彼の軍服は以前よりも体に馴染んで見える。あるいは、彼自身が短期間のうちに"大人の男"の顔立ちへと変わってしまったせいかもしれない。


 不落の獅子オレオーンの息子。


 父を亡くし、数多の部下を失い、それでも彼は逃げ出すことを許されなかった。若き騎士として、崩壊した砦の修復計画を立ち上げ、人員を募り、予算を工面する。


 その激務からか、彼の若さは随分と削り取られたように見えた。代わりに着込んだ、重厚な責任という鎧を着こなすには、もう少しばかり時間が要りそうだ。


「別に、私は何もしていないわ。お父様の用意した書類を渡しただけよ……もう、動き回って大丈夫なの?」


 私が問いかけると、アルトは微かに口角を上げて、頷いた。


「はい。ポーラ殿の調合してくれた薬がよく効きましたので。……それよりも、お嬢様の方こそ。お疲れではありませんか?」


「ええ、大丈夫よ。"姫"って疲れ知らずなのね、傷も、すぐに癒えたもの」


「……それなら、いいのですが」


 アルトの声は、どこまでも私を案じる色を帯びていた。


 書類を鞄に仕舞い終えた彼は、ふと動きを止める。窓から差し込む光が、彼の真剣な眼差しを縁取っていた。


「お嬢様……。失礼を承知で、お尋ねいたします。あなたは、これからどうされるおつもりですか?」


「どう、とは?」


「……砦の再編は、私や警備隊の者が引き継ぎます。グラスベルの守りは、この命に代えても私たちが全うしましょう。ですから……あなたは、もう戦いに出る必要はありません」


 アルトは身を乗り出し、言葉を選びながら、静かに、けれど熱を持って続けた。


「どうか、普通の令嬢として……グラスベル伯の娘として、この屋敷で穏やかに過ごしてはいただけませんか。刺繍をし、お茶を楽しみ、スピカ殿の思い出と共に、またいつか笑い合える日が来るまで。……あなたは、それ以上のものを背負うべきではありません」


 彼の言葉は、あまりに正しかった。


 それは、この世界に迷い込む前の私であれば、喉から手が出るほど欲した"平穏"そのものだった。


 刺繍、お茶、そしてスピカの記憶。


 けれど、その名を聞いた瞬間に、ドレスのポケットの中にある"小さな欠片"が、チクリと胸を刺したような気がした。


「……いいえ、アルト。私はもう、戻ることはできないわ」


 私は、鏡を見るような無機質な声で答えた。


「今の私は、令嬢のノクティアではない。……あの日、あの場所で、肝心な時に一歩遅れてしまった。舞踏会に間に合わず、救いたい手にも届かず、大切な人を失って初めて立ち上がった――"間に合わなかったシンデレラ"なのよ」


 アルトが、息を呑む。


 私は、硝子のように冷え切った自らの意志を、彼に突きつけた。


「この世界には、理不尽が蔓延(はびこ)っている。"姫"という呪われた力が、誰かの幸せを奪い、物語を歪め、死者の骸で城を築いている。……赤ずきんだけじゃない。他にも、この理不尽を当然のように振りまく者たちが、まだこの大陸には溢れている」


 私は立ち上がり、窓の外――遠くそびえる王都の、あるいは帝国の方向を見据えた。


「だから、私は決めたの。この世にいる全ての"姫"を打倒し、この呪われた連鎖を平定する。戦火を止め、誰もが間に合わない絶望に泣かなくて済むまで。それが、私がこの身体を与えられた理由なのだとしたら」


 アルトは、立ち上がろうとした私の言葉を遮るように声を上げた。


「ですが、それは……! 全世界の理不尽を一人で背負うなど、あまりに過酷な道です! あなたという個人が、どれだけ傷つくと思っているのですか!」


「ええ、そうね。だから――」


 私は振り返り、アルトの瞳をまっすぐに見つめた。

 そこにはもう、弱々しい迷いはなかった。




「そのすべてが終わった時……私は、この身体を彼女に――返すわ」




「な……?」


「本物のノクティア。……私が不本意に奪ってしまった、彼女の魂。この世界を平定し、"姫"という役割が不要になった暁には、私はこの身体を返上して消える。……それが、私にできる唯一の贖罪だから」


 アルトの表情が、驚愕と、そして深い悲痛に染まった。


 彼は、目の前の少女が自分たちと同じ人間ではなく、自らを"使い捨ての刃"として定義してしまったことを悟ったのだ。


 沈黙が、重く、長く部屋を満たした。


 やがて、アルトはゆっくりと膝を突き、騎士の最敬礼をとった。


「……あなたは、本当に残酷だ。ノクティア様」


 彼の声は震えていた。けれど、その奥には、岩のように固い決意が宿っていた。


「たとえあなたが、自らを"間に合わなかったシンデレラ"と呼ぼうとも。……たとえいつか、その身体から去るつもりであろうとも。"俺"は、あなたの騎士であることを誓います」


 彼は顔を上げ、私を見据えた。


「あなたがすべてを終わらせるその日まで。俺はこの地を守り、あなたの背後を盤石なものにしましょう。……お嬢様。あなたが歩むその硝子の道が、たとえどれほど鋭利な破片に満ちていようとも」


「……ありがとう、アルト」


 私は、微かに微笑んだ。


 けれど、その微笑みはかつてのように温かくはなかった。


 アルトは、予算書を手に部屋を去る際、一度だけ振り返った。そして、何かを言おうとしたが、そのまま飲み込んで去っていく。


 その背中は、父オレオーンの面影を背負いながらも、どこか新しい強さを湛えていた。


 扉が閉まり、再び静寂が訪れる。


 私は自室の鏡に向かい、自分の瞳を見つめた。


 硝子の瞳。


 砕けない、曲がらない。けれど、一度割れてしまえば二度と元には戻らない。


「さあ……始めましょう」


 全ての姫を、この手で打倒するために。

 私は一歩、新しい地獄への道を踏み出した。


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