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36話「灰の後の静寂」

 レグルス砦からグラスベル領へと向かう馬車の中、私は一度も窓の外を眺めることができなかった。


 揺れる車内に響くのは、車輪が石を噛み、轍を刻む単調な音だけだ。いつもなら隣に座り、私の髪を整えたり、とりとめもない世間話をして私を和ませてくれたりする少女の姿は、もうどこにもない。


 膝の上に置いた拳をそっと開く。


 そこには、戦場の跡地で拾い上げた、一片の硝子の欠片があった。月光を吸い込んで白く透き通るそれは、かつて私の侍女であり、最後には私の"ガラスの靴"として寄り添ってくれた少女の、唯一の形見だ。


(……温かくも、冷たくもない)


 魔法が解ければ、それはただの物質に戻る。


 あれほどまでに鮮烈な意志を持って私を庇ったスピカは、今や(てのひら)を傷つけることもない、小さな無機物へと成り果てていた。


 私はそれを、壊さないように、けれど片時も離さないように、ポケットの奥深くへと仕舞い込んだ。




 そうして、しばらくした頃だろうか。グラスベル邸の門が見えたとき、私は自分が"帰ってきた"のではなく、"逃げ延びた"のだという実感を、改めて喉の奥に突きつけられた。


 門番たちは、泥に汚れ、煤にまみれた私の姿を見て息を呑む。彼らが期待していたのは、"不落の獅子"オレオーンに守られ、可憐な侍女を連れて微笑む"令嬢ノクティア"の誇らしい姿だったはずだ。


 玄関ホールに足を踏み入れると、邸内はひっそりと冷え切っていた。


 いつもなら、扉が開く音を聞きつけて、スピカがパタパタと足音を立てて駆け寄ってくるはずの場所。

 


『お帰りなさいませ、お嬢様。お疲れではありませんか?』



 幻聴のような彼女の声が耳を掠める。


 だが、現実にそこに立っていたのは、一人の壮年の男だった。


 この地を統べる領主であり、この体(ノクティア)の父――グラスベル伯だ。


「……ノクティア」


 その声は、重く、掠れていた。


 私は彼に歩み寄り、深く、深く頭を下げた。言葉よりも先に、堪えていた熱いものが床に落ちて、小さなシミを作る。


「……申し訳ありません、お父様。オレオーン様も、スピカも……私が、私が至らないばかりに、失ってしまいました」


 伯爵の視線が、私の背後――誰もいない空間を彷徨う。


 長年の戦友であり、己の右腕でもあったオレオーンの不在。実の娘のように慈しみ、ノクティアの半身として育ててきたスピカの不在。


 その事実は、長くこの地を守ってきた、強き辺境伯の肩を、見る影もなく落胆させた。


「……そうか。二人とも、逝ったか」


 伯爵は、震える手で顔を覆った。


 沈黙がホールを支配する。壁に飾られた先祖たちの肖像画が、生き残った私を無言で責めているような錯覚に陥り、私は唇を強く噛み締めた。


 泥を落とすのもそこそこに、私たちは、応接室で対峙した。


 私は震える声を絞り出し、砦で起きたことのすべてを報告した。


 アンタレス――"どろけてしまった赤ずきん"の理不尽なまでの暴力。スピカが自らの身を呈して時間を稼いだこと。そして、私が"シンデレラ"の力に目覚め、死者たちの残骸を硝子に変えて戦ったこと。


 伯爵は私の話を、一言も遮らずに聞いていた。


 話し終えたとき、私は何を言い返されても仕方がないと思っていた。私の無茶に、沢山の人を巻き込んだのは事実だ。そして、多くの命を奪ったことも。


 だから、どんな(そし)りも受けるつもりでいた。


 だが、伯爵が口にしたのは、予想だにしない言葉だった。



「……ノクティア。いや、我が娘よ。礼を言わせてもらいたい」



「え……?」


 伯爵は椅子から立ち上がり、私に向かって静かに頭を下げた。


「オレオーンを亡くしたことも、スピカを失ったことも、領主として、そして、一人の人間として、身を引き裂かれるような苦しみだ。……だがな、私は救われたのだ。彼らの忠義が、そして、お前の決死の戦いが、我が娘の魂を無駄にさせなかったことに」


 伯爵の瞳には、深い哀しみと共に、揺るぎない確信が宿っていた。


「お前が生き延びたことで、ノクティアという存在は、ただの犠牲者から"理不尽に抗い、生き抜いた姫"へと変わった。彼らが守りたかったのは、単なる肉体ではない。ノクティア・サイレンス=グラスベルという一人の少女が、この過酷な世界で確かに生きたという証そのものだ」


「……そうですね、私も、報いることができてよかったです」


「……沢山の命が、あの子の存在を繋ぎ止めてくれた、私はグラスベルの長として、それに深く、深く感謝する」


 私は、言葉を失った。


 彼が感謝しているのは、生き残った"(こはる)"ではない。


 私が、私たちが守り抜いた"ノクティアという物語"に対してだ。


(ああ、やっぱり……これは、優しい呪いなんだ)


 "姫"という存在。


 それは、誰かの犠牲の上にしか成り立たず、失ったものの重さでしかその価値を証明できない。


 私は、自分の胸にそっと手を当てた。

 ドクン、ドクンと、力強く、けれどどこか空虚に脈打つ心臓。


「……お父様。私は……」


「今は何も言わなくていい。お前はよくやった。今日は、ゆっくりと休み、身体を温めるのだ。後のことは、明日考えればいい」


 彼はそう言って、大きな掌で私の頭を一度だけ、乱暴に、けれど慈しむように撫でた。




 グラスベル伯との対話を終えた私は、数日ぶりに自分の部屋へと戻った。


 かつてスピカが毎日磨き上げていたであろう鏡台は、いつの間にか曇っていた。そんなに長く空けたわけではないのに、と、不思議に思いつつ、私は椅子に座り、鏡の中に映る自分を見つめた。


 ――ここにいる私は、誰なのだろう。


 星河こはるか、伯爵令嬢のノクティアか。それとも、もっと違う何かなのか。


 窓の外では、空が白み始めていた。問いかけど問いかけど、答えは出ない。


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