35話「12時の鐘、魔法の終わり」
――ゴーン。
夜の静寂を切り裂き、最後の一振りが響き渡った。
12時。魔法が終わりを告げる、残酷な終止符。
私の背後で輝いていた巨大な時計盤が、微かな光の粒子となって崩れ始めた。それと呼応するように、砦を埋め尽くしていた美しい硝子の彫刻たちが、一斉に悲鳴を上げる。
真っ二つに切り裂かれたオレオーンの巨像が、名もなき兵士たちの隊列が。アンタレスの"溶解"にすら耐え抜いた玻璃の軍勢も、魔法が解ければ、パキパキと音を立てて空気に溶けていく。
そして――。
「……あ、スピカ……」
――私の目の前にいた、彼女も。
アンタレスを貫いた細剣を降ろし、スピカはゆっくりとこちらを振り返った。
その透き通った頬に、深く、無数に走るヒビ。
「嫌よ……嘘でしょう? まだ、まだ何もしてないわ。お揃いのリボンを買いに行くって、約束したじゃない……!」
私は、崩れゆく彼女の腕を掴もうとした。けれど、私の指が触れた場所から、彼女の身体は砂のようにサラサラと零れ落ちていく。
叫び、縋り、私は彼女の胸に顔を埋めた。
ずっとここにいてほしい。偽物の私を『大好きだ』と言ってくれた、たった一人の、私のガラスの靴。
「行かないで……スピカ、お願い……!」
泣きじゃくる私の頭に、ひんやりとした、けれど確かな温もりを宿した手が触れた。
見上げると、スピカは穏やかな、どこか慈しみを感じさせる笑みを浮かべていた。
声は聞こえない。けれど、硝子が軋むような、涼やかな音が私の胸に直接届いた。
彼女の瞳は言っていた。もう、大丈夫。あなたはもう、一人で歩ける"姫"になったのだから、と。
「――そう、ね」
私は、溢れ出す涙を袖で拭った。
最後くらい、彼女が誇れる私でいよう。あの子が命を懸けて守った"お嬢様"として、胸を張って見送らなきゃいけない。
「ありがとう、スピカ。……貴女がいたから、私はこの地獄のような世界で、自分を見失わずにいられた」
私は、砕けゆく彼女の身体を強く、強く抱きしめた。
「私、これからも負けないから。……だから、見ていて。どんな悲劇も書き換えて、きっといつか、幸せな結末に辿り着くから――」
指先から離れていく魔法の感覚。それは、溢れていく砂粒を、手のひらの上に留めようとするのによく似ていた。
それでも、あと少しだけ。この言葉だけは、伝えなきゃいけなかった。
「――じゃあね、おやすみ、スピカ。またいつか」
――はい、お嬢様。また、いつか。
スピカの姿が、一際強く輝いた。
パリン、と。
最も高く、澄んだ音が響き、私の腕の中から重みが消えた。
舞い散る硝子の粒子が、月光を反射して砦の裏門をキラキラと彩る。それは、この世で最も美しい吹雪だった。
それを見つめる私の背後から、引きずるような足音が聞こえてくる。
「……まさか、本当にやったのか? あの"赤ずきん"を」
硝子の粉塵が舞う中、ボロボロになったアルトが姿を現した。
軍服はあちこちが焼け焦げ、頬からは血が流れている。彼がどんなに苛烈な戦況を切り抜けたのかが、その様から伝わってくるほどだ。
アンタレスが壁を突き破った跡、そして一面に広がる硝子の残骸。その中央に、泥に汚れたドレスで立ち尽くす私を見て、アルトは悟ったように静かに目を伏せた。
「……失礼。"姫"の力を持つというのは、本当だったのですね」
私は、スピカが消えた場所から目が離せなかった。だから、彼に視線を向けずに口を開く。
「……アルト、生きてたのね。戦況は?」
「砦内の帝国兵は、殲滅しました。そもそもが、"赤ずきん"に随伴していた一個小隊程度の戦力でしたし、装備も軽装でした。恐らく――」
と、詳細を話そうとした彼は、そこで一度言葉を切った。今の私を見て、その報告は必要無いと考えたのだろう。
否――正確には、ほかにもっと話すべき事があると、察したからか。
「……ノクティア様、この力は、あまりに強大すぎる。貴女がこれを隠したいというのなら、上には俺から上手く報告しておきます」
アルトが、私を庇うように一歩前へ出た。
「"赤ずきん"の襲来に対し、ノクティア様が敵の爆弾を用いた奇策で応戦、どうにか撃退に成功した……と。そうすれば――」
アルトの配慮は、痛いほどに優しかった。
けれど。
「――いいえ、アルト。もう、隠す必要はないわ」
私は、ゆっくりと振り返った。
私の瞳には、もう迷いも、自分を"紛い物"と卑下する暗さもない。
「私は"姫"として戦う。この力を使って、理不尽に奪われる命を、一つでも多く掬い上げる。……それが、私を信じてくれたあの子への、唯一の報いだから」
アルトは驚きに目を見開いたが、やがて不敵な笑みを浮かべ、深く、臣下の礼をとった。
「……承知いたしました。ならば、私のこの命も、あなたの脚本に捧げましょう。ノクティア様」
空を見上げれば、月は隠れ、曇り空の昏い夜が広がっていた。
満月のように満たされた幸福はない。けれど、新月はこれから満ちていく、始まりの象徴だ。
間に合わなかったシンデレラ、いまはまだ、それでいい。
灰の中から立ち上がり、自らの手で運命を切り拓く――私も、一人の"姫"なのだ。
なに、シンデレラの物語は、魔法が解けてからが本番なのだから――。




