34話「灰かぶりと銀の矢」
鋼が喰らいつき、硝子が絶叫を上げる。
かつてレグルス砦の裏門と呼ばれたその場所は、今や"狩人"と"硝子の剣士"が命を削り合う、狂乱の舞踏会場へと化していた。
「――死ね、死ね、死ねッ!!」
アンタレスが吠える。隆起した筋肉が、手にした巨大な裁ち鋏を猛獣の牙のごとく振り回す。一振りごとに空気が悲鳴を上げ、溶解の力を帯びた衝撃波が周囲の硝子の床をドロドロの泥へと回帰させていく。
対するスピカは、その暴風の中を、一筋の銀光となって駆け抜けていた。
(……信じられない)
私は、背後の時計盤を背負ったまま、その光景に目を奪われていた。
硝子の人形として再構成されたスピカの動きは、私の想像を遥かに超えている。彼女が床を蹴るたびに、硝子の粉塵が星屑のように舞い、レイピアの鋭い切っ先が、アンタレスの剛腕を、脇腹を、確実に刻んでいく。
それは、重力を無視したワルツだった。
アンタレスの膂力は、触れるものすべてを破壊する"理不尽"そのもの。けれど、スピカはそれを受け流さない。正面から打ち合うのではなく、衝撃が伝わる瞬間に硝子の身体を微細に振動させ、すべての力を屈折させていた。
「この、チョコマカと……ッ!!」
アンタレスが左手の猟銃を放つ。至近距離での散弾。
スピカは空中で身を捻り、それを紙一重で回避すると、着地と同時に硝子の靴でカチリと音を立て、アンタレスの懐へと潜り込んだ。
「――!」
スピカの放つ連撃。
だが――その身にまとった、"狩人"としての本能だろうか。それを察知していたアンタレスは、自らの足元を意図的に溶解させ、粘つく泥に足をめり込ませることで、スピカの踏み込みによる衝撃を吸収し、カウンターの鋏を振り上げる。
「捕まえたよ、銀色の鼠が!!」
「……っ!!」
スピカが後方に跳ぶ。
しかし、アンタレスの執拗な追撃が続く。彼女は周囲の瓦礫を溶解させ、"泥の弾丸"として撒き散らす。
単なる溶解液ならいざ知らず、蒸気を上げながら飛来するそれは、硝子の身体を持つ今のスピカにとって、急激な温度変化と衝撃は致命的な"歪み"を生む原因となる。
アンタレスは戦場を生き抜いてきた"姫"だ。正面からの技量で劣ると悟るや否や、彼女は卑劣なまでの搦手を使い、スピカの足場を奪い、その美しい輪郭を崩しにかかる。
(このままじゃ……!)
スピカの右腕に、微かな亀裂が走るのが見えた。
アンタレスは、私の"心の芯"がスピカであることを完全に見抜いている。この硝子の剣士さえ砕けば、私の魔法は瓦解し、この舞踏会は終わる。そう確信した彼女の瞳に、残酷な勝利の光が宿った。
「終わりだ! アンタの宝物ごと、粉々に溶かしてやるよぉ!」
アンタレスが猟銃を背負い、両手で巨大な鋏を構え直す。
彼女の全身から、これまでにない濃密な紫色の蒸気が立ち上った。全魔力を込めた、広域溶解斬撃。それを放とうとした、その瞬間――。
「――あら。その靴、アンタには少し"窮屈"じゃないかしら?」
――その瞬間を、待っていた。
「な……っ!?」
アンタレスの動きが、一瞬だけ止まる。
否、彼女の「影」が、不自然に地面に癒着していた。
言葉に嘘はない――シンデレラの武器は、ガラスの靴。しかしそれを、私が履くとは言っていない。
私は、アンタレスが足元を溶解させ、「泥」の中に潜んでいたその場所を――瞬時に、絶対零度の硝子へと結晶化させた。
「……っ、足が……抜けない……!?」
溶解液でドロドロになっていた地面が、ダイヤモンドよりも硬い硝子の塊へと変貌し、彼女の足をガッチリと固定していた。無理に動こうとすれば、彼女自身の足が"義姉たちのように"引き千切れる。
――無理やり適合させられた、硝子の靴。
「今よ、スピカ!!」
叫びと共に、私は全ての集中力をスピカの剣へと向ける。
同時、スピカの身体が、これまでにない青白き輝きを放った。
彼女は、自らの身体が砕けるのも厭わぬ速度で、夜風を切り裂き、一筋の光の矢となった。
身動きの取れないアンタレス。
彼女の剥き出しの胸元へ――スピカの細剣が、一点の迷いもなく突き立てられた。
硝子の刀身が、肉を裂き、骨を砕き、心臓を貫通する。
「……あ、が…………っ、あああああッ!!」
アンタレスが絶叫し、巨大な鋏が手からこぼれ落ちる。
彼女は口から血を吐きながら、信じられないものを見るような目で、私を睨みつけた。
「ふざけんな……ふざけんなよ! 『灰かぶり』が――」
その叫びに、私は、硝子のドレスの裾を優雅に持ち上げ、彼女に向けて完璧な礼を返す。
「――あら。それって、最高の褒め言葉よ?」
灰を被り、泥を舐め、大切な人を失い、それでも立ち上がった私。
間に合わなかった過去を背負い、地獄の灰の中から生まれたこの力。
今の私にとって、"灰かぶり"という名は、何よりも誇らしい、戦いの称号だ。
「…………ッ!!」
アンタレスの瞳に、死の恐怖が滲む。
しかし、手負いの獣は、ただでは死なぬ。彼女は執念の化け物だった。
悪足掻きのように、懐から取り出したのは、見覚えのある、銀色の筒。まだ隠し持っていたのかと、スピカに止めさせるよりも、投げ捨てる方が速かった。
――カッ!!
凄まじい閃光と爆煙が、砦の深部を飲み込む。
激しい衝撃波が押し寄せ、私は目を細めた。
「逃がさない……っ!」
煙を振り払い、私が駆け出そうとした時、スピカの硝子の腕が、私の肩を優しく制した。
爆煙の向こう側。血の跡を残しながら、アンタレスが壁を突き破り、夜の森へと逃亡していく影が見えた。深手は負わせた。少なくとも、しばらくは戦列に復帰できないほどの重傷だ。
「……っ、スピカ……!」
いや、今は、アンタレスのことなど、どうでもいい。
それよりも、目の前にいる、彼女に手を伸ばす。
爆風から私を庇うように立っていたスピカは、ゆっくりとこちらを振り返った。
また会えた。
もう一度、その姿を見ることができた。
込み上げる涙を堪えきれず、私は彼女の細い指先を掴もうとして――。
――ゴーン。
重厚な、鐘の音が響いた。
私の背後、巨大な時計の文字盤が、ついに"12時"を指し示していた。
魔法の時間が、終わる。
「……あ」
スピカが、優しく微笑んだ。
その刹那、彼女の透き通った頬に、一筋の黒い筋が走った。
――パキリ。
小さく、けれど残酷な音が、静寂の砦に響き渡った。
彼女の硝子の顔に、深い、深いヒビが入り始めていた。




