33話「狩人の咆哮、硝子の剣」
静寂の砦に、硬質な硝子が触れ合う涼やかな音が、絶え間なく響き渡る。
「……ッ、この、薄気味悪い人形共がぁ!!」
その合間に、アンタレスが吠える。彼女の放つ"溶解"の熱波は、硝子の騎士たちの盾に触れた瞬間、何事もなかったかのように霧散し、あるいは屈折して虚空へと消えていく。
かつて不落の獅子と呼ばれた男、オレオーン。その硝子像が、感情のない冷徹な剣筋でアンタレスを追い詰めていた。生前の彼がそうであったように、無駄のない、殺意だけを研ぎ澄ませた重厚な一撃が、アンタレスの"姫"としての誇りを削り取っていく。
「あは、あはははは! どうしたの、アンタレス。自慢の"溶解"も、さっきみたいな鋭いキックも、もう私には届かないみたいね!」
私は、戦場の中央でドレスを翻し、思い切り笑ってやった。
アンタレスの動きが、確実に鈍っている。
"溶解"が効かない。死人が死なない。理不尽によって世界を蹂躙してきた彼女が今、私の作り出した"硝子の道理"に首を絞められていた。
「……っ、が、は……っ!!」
硝子の兵士たちの槍が、アンタレスの赤い頭巾を掠め、その華奢な肩を浅く切り裂いた。
彼女はついに、膝を突く。
泥にまみれ、息を切らし、狼に追い詰められた赤ずきんそのもののような無惨な姿。
「……もう終わりよ。あなたの脚本は書き換わった。歪で狂った"赤ずきん"は、ここで――」
「――あ」
アンタレスが、掠れた声を漏らした。
うつむいた彼女の肩が、不気味に震え始める。
「……アタシは、可愛くいたかった。……ただの"赤ずきん"として、全部をどろどろに溶かして、笑って、物語を終わらせたかったのに……!!」
刹那、彼女の全身から、これまでの"溶解"とは次元の違う、禍々しい殺気が膨れ上がった。
「――アンタのせいだよ、ノクティア。……アタシに、これを使わせたアンタが悪いんだからなァ!!」
――バリ、バリバリッ!!
異様な音が響いた。
アンタレスの着ていた愛らしい赤い服が、内側から膨れ上がる筋肉によって無残に引き裂かれる。
華奢だった手足は岩のように隆々と太くなり、背丈も一回り大きく膨れ上がる。包帯に覆われていた顔の隙間から覗く瞳は、獲物を追う獣のそれ――否、獲物を屠る"狩人"の冷酷な光を宿していた。
「……っ、あなた、それ……!」
私の脳裏に、閃くものがあった。
『赤ずきん』で、狼を倒すのは主人公の少女じゃない。狼を仕留めるのも、その腹に石を詰めるのも、全て狩人の仕事だ。
驚く私の前で、彼女の手の中に、虚空から引きずり出された"武器"が顕現した。
一つは、鈍い銀光を放つ二連式のショットガン。
そしてもう一つは、狼の腹を裂き、石を詰め込むために使われたであろう――身の丈ほどもある、巨大な裁ち鋏。
「――"狩人"、狼の腹を裂くのなら、やっぱりこうじゃないとねぇ!」
アンタレスの声が、重々しく響く。
――ドォォォォォン!!
直後、至近距離で放たれた猟銃の轟音が、最前列にいた硝子の兵士たちを粉々に粉砕した。
"十二時まで砕けない"はずの硝子が、理不尽なまでの破壊力によって、ただの破片へと成り果てる。
「……ッ、オレオーン!!」
硝子の獅子が剣を振り下ろす。だが、アンタレスはそれを巨大な鋏で軽々と受け止めると、そのまま万力のような力で硝子の刀身ごと、彼の胴体を真っ二つに断ち切った。
美しかった硝子の像が、次々と火花を散らして崩落していく。
「あはは、あははははは! 壊れる! 壊れるよぉ、ノクティア! 綺麗なだけの人形なんて、アタシの鋏の前じゃ紙切れ同然なんだよ!!」
彼女はもはや少女ではなかった。
獲物を追い詰め、その皮を剥ぎ、臓腑をぶちまけることを生業とする、純粋な殺戮者。
砦の頑強な石壁すら、彼女の鋏が通り過ぎるだけでバターのように引き裂かれる。
「――次に裂くのは、アンタの腹だぁ!!」
アンタレスが跳んだ。
巨大な鋏が、処刑人の刃となって私の首筋に迫る。
間に合わない。硝子の壁を張るよりも、彼女の殺意の方が速い。
私は死を覚悟し、目を瞑り――。
――キィィィィィィン!!
鼓膜を揺らす、高く、澄んだ金属音が響いた。
「……え?」
目の前で、アンタレスの巨大な鋏が、ピタリと止まっていた。
それを受け止めていたのは、一本の細身の剣。
透き通った硝子の刀身を持つ、優美で鋭利なレイピアだった。
硝子の床から、一人の剣士が音もなく立ち上がっていた。
銀色の軽装鎧に身を包み、灰色の髪を夜風に揺らす、凛々しい後ろ姿。
「……あ、ああ……」
声が、震える。
そこにいたのは、他の兵士たちのような"人形"ではない。
彼女だけは、肌の質感も、髪のなびきも、あの時私の手から零れ落ちた温もりそのものを湛えていた。
「……そうよね、やっぱり、シンデレラの武器は、ガラスの靴じゃないと」
私は涙を拭い、目の前の背中に向かって、最高の信頼を込めて微笑んだ。
「一緒に戦ってくれるわよね、スピカ?」
その硝子の騎士は、言葉を返さなかった。
けれど、彼女は静かに、けれど力強く、一度だけ頷いた。
その指先には、泥まみれだったはずの、けれど今は硝子の輝きを帯びたリボンが、しっかりと結ばれている。
「……チッ、またあの女かよ……! しつこすぎんだろ、死体は死体らしく、大人しく溶けてろ!!」
アンタレスが吠え、鋏を振り上げる。
対するスピカは、硝子の靴でカチリと床を鳴らし、しなやかに剣を構えた。
狩人と、硝子の剣士。
私と相手の物語、どちらが強いかが――これで決まる。




