32話「舞踏会の始まり」
「……ふざけんな。"硝子"なんてふざけた魔法に、私の"溶解"が押し負けてたまるかよ……っ!」
アンタレスの叫びが、崩れかけた砦の深部に木霊した。
彼女は狂ったように両手を突き出し、どろどろとした紫色の溶解液を乱射する。四方八方に飛び散る死の飛沫。石を溶かし、鉄を腐らせるその奔流は、しかし私の周囲に展開された硝子の障壁に触れた瞬間、パチンと虚しく弾けて霧散していった。
「無駄よ、アンタレス。何をやっても、この硝子の壁を溶かすことはできない」
私は静かに告げる。けれど、アンタレスの瞳の奥から光は消えていなかった。彼女は口角を歪に吊り上げ、凶悪な笑みを浮かべる。
「――うるさいんだよ、知った風な口きくなッ!!」
溶解液の狙いが、私から逸れた。
奔流が直撃したのは、私の頭上の梁と、すでに半分溶けて脆くなっていた天井の基部。
――ズ、ズズ……。
嫌な地響きと共に、数トンの石材が、そして瓦礫の山が、逃げ場のない私を目がけて一気に崩落した。
「ギャハハ! 硝子なら、衝撃には弱いだろ? 『石を詰めろ』だっけ。いい作戦! それ、アタシが借りちゃったぁ!!」
土煙が舞い、轟音が止む。私がいた場所は、完全に巨大な岩の山に押し潰されていた。
アンタレスはそれを見下ろし、肩で息をしながら快哉を叫ぶ。
「あーあ、ぜーんぶお釈迦だ。道理だの理屈だの、死んじゃえば全部ゴミなんだよ――」
「……その通りね。けれど、私はまだ死ぬ予定はないの」
瓦礫の山の隙間から、無数の硝子のスパイクが噴水のように突き出した。
岩を砕き、土砂を押し除けて、私はその中から悠然と姿を現す。ドレスの裾に一点の汚れもなく、髪一本乱れていない。
「馬鹿ね。魔法の硝子は、十二時が来るまで砕けないのよ」
「……っ、調子に乗るなァ!!」
アンタレスが地を蹴った。
同じ魔法を操る"姫"の領域に踏み込んだ私には、彼女の動きはスローモーションのように見えていた。右からの回し蹴り。私はそれを硝子の壁で防ごうとした――その時。
(……え?)
目の前から、アンタレスの姿が消えた。
否、彼女は蹴りの軌道を無理やり変え、溶解液を足元に放つことでその反動を利用し、私の死角へと滑り込んだのだ。
「あんたこそ、戦闘経験は浅いじゃん!!」
放たれたのは、虚報を織り交ぜた渾身の蹴り。
私は反射的に硝子の盾を突き出したが、瞬間、グラリとバランスが崩れる。
「――っ!」
"融解"。
彼女が溶かしたのは、盾と地面の接地面。そうとも知らずに、私は体重を預けてしまう。
自然、傾いた体。そこへ、包帯に巻かれた彼女の足が腹部へと叩き込まれる。
「ガハッ……!」
背後の壁まで吹き飛ばされ、肺の空気がすべて押し出される。
激痛。けれど、それ以上にアンタレスの瞳に宿る"執念"が恐ろしかった。
「アタシはこの世界で、泥水啜って生き抜いてきたんだ。昨日今日、"姫"の力に目覚めたひよっこに、負けてたまるかよ……!」
彼女は肩で息をしながら、殺意を剥き出しにする。
確かに、彼女の言う通りだ。私はただの女子高生で、泥を這い、血を流して生き抜いてきた彼女のような経験はない。策を弄しても、実戦の駆け引きでは一日の長がある。
けれど、私は口元に溜まった血を指で拭い、涼しい顔で笑って見せた。
「ええ、そうね。私は戦いなんて、ちっとも得意じゃないわ」
「……あ?」
「なら、戦いは――それが得意な人たちに任せましょうか」
私は静かに、右手を硝子化した地面へと当てた。
「――『|シンデレラ城の舞踏会』、みんな、私にもう一度力を貸して……!」
刹那、周囲に溜まっていた"泥"が、一気に青白い輝きを帯び始めた。
溶解され、形を失っていたはずの石と鉄。そして、ここで命を散らした者たちの残骸が、カチカチと硬質な音を立てて再構成されていく。
泥の中から立ち上がったのは――無数の硝子の人形たちだった。
ある者は槍を構え、ある者は盾を構える。
その姿は、ここで命を落とした兵士たちそのもの。けれど、その肉体は水晶のように透き通った硝子でできており、月光を反射して、神々しいほどに美しく煌めいている。
「な……これ、死人……!? 死人を動かしてるの!?」
「いいえ。これは、ここで散った人たち――あなたが殺した人たちの、"誇り"の形よ」
その言葉に呼応するように、最前列で立ち上がったのは、一際巨大で、屈強な硝子の巨像。
かつて不落の獅子と呼ばれた男、タラゼド・オレオーン。
彼の瞳には意志はなく、ただ静謐な美しさだけが宿っている。けれど、その硝子の剣は、アンタレスを確実に屠るための鋭利な牙となっていた。
「十二時の鐘が鳴り止むまで。……さあ、彼らと踊りなさい。アンタレス」
私の号令と共に、硝子の騎士たちが一斉に動き出す。
彼らが歩くたびに、シャンデリアが揺れるような涼やかな音が響き、それは死を運ぶ旋律となってアンタレスを包囲した。
静寂の砦に、地獄の舞踏会が幕を開けた。




