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30話「Who am I ?」

 指先に触れる感触は、泥のようだった。


 かつて私を温かく包み込み、迷いなく剣を振るい、不器用なほど真っ直ぐな忠誠を捧げてくれた少女。その輪郭(りんかく)はもうどこにもなかった。


 溶けた銀色の甲冑と、バラバラになった灰色の髪。そして、泥にまみれて千切れかけた、あのリボン。


「……ぁ、あ……スピ、カ……」


 私は、その熱を失った残骸を掻き抱いた。ドレスが泥に汚れ、肌が溶解液の名残で焼けるのも構わなかった。


 けれど、抱きしめれば抱きしめるほど、彼女は形を失い、私の指の間から零れ落ちていく。


「あはは、まだそんなゴミを大事そうに抱えてるんだ。物好きだねぇ、アンタ」


 背後から、戦場にはあまりに不釣り合いな、鈴を転がすような笑い声が響いた。

 

 赤い頭巾を揺らし、アンタレスが瓦礫の山を飛び越えて現れる。彼女の足元では、石材がジュウジュウと音を立てて溶け続けている。


「その子なら、アタシが美味しく溶かしてあげたよ。最期まで『お嬢様、お嬢様』ってさ。あーあ、ホント馬鹿みたい。アンタが逃げてる間に、あの子、何度も足を溶かされて、それでも剣を振るおうとしてたんだよ? 笑っちゃうよね、藻掻いてるうちに、腕まで溶けちゃってさ」


 アンタレスの言葉が、鋭い氷の棘となって私の耳を貫き、心臓を微塵切りにする。


 私のせいだ。


 私が無策だったから。私が嘘をついたから。私が――。


(また、間に合わなかった)


 脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。


 燃え盛る自宅。火の粉の中で泣き叫ぶ妹。差し伸べた手は届かず、指先をかすめたのは、熱を帯びた絶望だけだった。


(間に合わなかった。間に合わなかった、間に合わなかった! 間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった間に合わなかった!)


 呪詛のように、その言葉が思考を埋め尽くす。


 視界が急速に色を失い、周囲の音が遠のいていく。


 気がつくと、私は底の見えない暗闇の中に一人、立っていた。




 ――どうして、間に合わなかったの?




 目の前に、一人の少女が立っていた。


 銀色の髪、気品に満ちた顔立ち。けれど、その瞳には光がなく、深い虚無だけが宿っている。


 それは、私が中身を奪ってしまった本物のノクティア・サイレンス=グラスベルだった。


『あなたは私の顔を使い、私の名を使って、私の愛した人たちを死なせたわ』


 彼女の背後から、次々と影が現れる。


 溶解液でドロドロになった兵士たち。

 無惨に泥となって消えた、不落の獅子・オレオーン。

 そして、潰れた頭から血を流して笑う妹・ちはる。


『お姉ちゃん、また守ってくれなかったね』


『ノクティア様。貴女の策は、ただ我々を死地に追いやるだけのものでしたな』


『そうだ。お前のせいだ。お前が来たから、すべてが壊れたんだ』


 死者たちの声が、四方八方から私を責め立てる。


 そうだ。私が、すべてを台無しにした。


 中身が普通の女子高生である私には、この過酷な世界を生き抜く資格なんて、最初からなかったんだ。


『ねえ、もう全部終わりにしちゃいましょうよ』


 目の前のノクティアが、優しく、冷たく微笑んで私に手を差し伸べる。


『どうせ今回も、間に合わなかったんだから。これ以上、誰も傷つかなくて済むように。あなたが消えて、私が消えれば、この悲劇の脚本も終わるわ』


(――そうね。もう、いいよね)


 私は震える手を伸ばした。彼女の手を取れば、この苦しみからも、スピカを失った絶望からも解放される。


 私は、膝を突こうとした。


 崩れ落ちる私の心。暗闇が私を飲み込もうとした、その時――。



「――大丈夫ですよ、お嬢様」



 背後から、温かい、ひたむきな声が聞こえた。


「私は、あなたを信じています」


 あまりにも真っ直ぐで、疑いのない声。


 私はハッとして振り返った。そこには誰もいない。けれど、確かに、誰かが私の背中を優しく、力強く押し上げていた。


(……信じる? こんな、偽物の私を?)


 私が、魔法も力もない『こはる』であることを知っていて、それでも『大好きだ』と言ってくれた。


 あの子が命を懸けて守ったのは、この惨めな"紛い物"じゃない。


 あの子はきっと、最期の瞬間まで、瞳の光を失くさなかったはずだ。


 あの子が守りたかったのは、絶望に屈する私じゃないはずだ。



「……まだ、終わらせない」



 死者たちの影を、私は真っ直ぐに見据えた。


 苦難の中、立ち上がり。

 死と灰の中を行き、それでも報われずに膝を突く。


 カボチャの馬車は来なかった。

 ガラスの靴を履いてもなお、一歩も踏み出すことはできなかった。


 けれど。

 

 期待された"奇跡"なんてなくても。

 あつらえ向きの"脚本"なんてなくても。


 あの子が愛してくれたこの心がある限り、私は、まだ死ねない。


 ぐらりと、世界が揺れた。

 内在世界の暗闇が、一気にひび割れていく。


 

 私は、現実の地獄へと目を開いた。



 目の前には、勝ち誇った顔で指先から溶解液を滴らせるアンタレス。


 抱きかかえたスピカの遺体から、微かな"冷気"が立ち上り始めた。


 それは、私の心が冷えた証拠なのか。


 それとも、折れた心が、最も硬く、最も美しい牙へと変貌した証か。


 凍てついたはず秒針が――再び動き出す。



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