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29話「ガラスの靴は砕けて」

 馬車が止まったのは、かつて不落を誇ったレグルス砦から、わずかに離れた丘の上だった。


 そこから見下ろす砦の姿に、御者台のアルトと、窓から身を乗り出したノクティアは、同時に言葉を失った。


「……あれが、レグルス砦だというのですか」


 アルトが絞り出すように呟いた。


 月明かりの下、砦はもはや石造りの堅牢な建造物ではなかった。壁はぐにゃりと歪み、塔の頂部が飴細工のように垂れ下がっている。溶解し、再び固まった石材は、まるで腐った巨獣の死骸のような、悍ましい質感を放っていた。


 風に乗って届くのは、鼻を刺すような硫黄の臭いと、焼けた肉と鉄が混ざり合った、生理的な嫌悪感を催す死の臭気だ。


「……行きましょう、アルト。あそこに、スピカがいるわ」


 自分の声は、驚くほど静かだった。いや、それは静寂というより、感情を無理やり凍らせて、ひび割れないように保っているだけの危うい平穏だった。彼女の瞳は、崩れかけた砦の深部だけを射抜いている。


 カチコチと、私を急かすように秒針が時を刻む音が、頭に響いていた。幻聴を振り払うように、私は一度、頭を振る。


「……ええ、行きましょう」


 アルトは噛み締めるように、腰の剣を引き抜いた。既にその声色に、感情は混ざっていない。


 彼らは残された数名の兵士と共に、馬車を捨てて駆け出した。



 裏門は、アンタレスが放ったのであろう、溶解の波によって完全に塞がっていた。流出した石材が冷え固まり、巨大な岩の壁となって侵入を拒んでいる。


 彼らは大きく迂回し、正門側へと回り込んだ。


「止まれ」


 アルトが手を上げ、私を物陰へ引き寄せる。


 正門付近には、すでに帝国の先遣隊が入り込んでいた。彼らは戦利品を漁るように、転がっている王国兵の遺体から装備を剥ぎ取り、勝ち誇ったような笑い声を上げている。


「……片付けるぞ。音を立てるな」


 アルトが合図を送る。


 怒りと憎しみを押し殺した、プロの動きだった。アルトと兵士たちは、霧が晴れるように音もなく走り出し、油断していた帝国兵の喉元を一突きで貫いていく。


 父を、仲間を、居場所を奪った相手への復讐。けれど、彼らは叫ぶことすらしない。ただ、冷徹に、効率的に、死を振り撒いて道を切り拓く。


「……ノクティア様、今のうちに!」


 アルトの声に弾かれ、私は地面を蹴った。雨上がりのような、不快な泥濘(ぬかるみ)の感触だった。


 溶けた鉄と石が混ざり、靴の裏に不快に絡みつく。転がっている死体を見る余裕はなかった。いや、見てしまえば、その中にスピカがいないことを確認する前に、心が壊れてしまうとわかっていた。


 門をくぐり、砦の内部へと侵入する。


 外の喧騒が嘘のように、建物の中は深い、深い静寂に包まれていた。


 かつて自分が割り振られた客室。オレオーンと舌戦を繰り広げた司令室。


 それらの風景は、アンタレスの"溶解"によってすべてが溶け合い、異質な洞窟へと変貌していた。

 

 命の気配が、まったくない。


 物陰から誰かが飛び出してくることも、伝令の足音が響くこともない。


 ただ、時折「ピチャ……」という、天井から溶けた何かが滴り落ちる音だけが、耳障りに響く。


 静かだからだろうか、頭の中の秒針の音が、さらに大きくなった。呼応するように、心拍が高鳴るのがわかる。


(スピカ。どこなの、スピカ……!)


 私は、胸の奥で叫び続けていた。


 あの子は強い。普通の人間なら死ぬような状況でも、あの子なら。あの子の剣なら、絶望さえ切り裂いて、どこかの物陰で私の帰りを待っているはずだ。


「遅いですよぉ、お嬢様」なんて、いつもの間の抜けた声で、笑ってくれるはずなのだ。


 迷路のように入り組んだ、どろどろの回廊。


 アルトたちは背後で、残存する帝国兵の小隊と交戦を始めたようだったが、私の耳には届かない。彼女は、あの別れの場所――裏門付近の、崩落した吹き抜けへとひた走る。



 やがて、視界が開けた。


 

 そこは、アンタレスを爆弾で追い詰めたはずの場所。

 そして、天井が溶け落ち、自分が落下した場所。


 月光が、崩れた天井の穴からスポットライトのように差し込んでいる。


 辺りには、爆発の跡と、それ以上に凄まじい"溶解"の痕跡が残されていた。


 壁はすべて液状化して流れ落ち、床には赤黒い、鉄と石の混じった沈殿物が広がっている――。


「……あ」



 ――時計の音すら、そこで止まった。


 

 その場所の中心。


 溶解の波が、円を描くようにして止まっている地点があった。


 そこには、一塊の、異質な"残骸"があった。

 

 銀色の金属が、熱で曲がり、ねじれ、地面に癒着している。


 それは、見覚えのある防具の一部だった。いつしか目を奪われた、一人の少女を凛々しい騎士へと変えた、特注の軽銀甲。


 そのすぐ傍らには、彼女の愛剣である細剣(レイピア)が、刀身の半分をドロドロに溶かされた無惨な姿で突き刺さっていた。


「……ッ!」


 一歩ずつ、這うようにしてその中心へと近づいていく。

 

 そこには、石畳と一体化するようにして、伏した"影"があった。


 顔も、手足も、その境界は溶解によって曖昧になっていた。


 けれど、その灰色の髪だけが、月の光を受けてかすかに銀色に輝いている。


 そして、その傍ら。


 ボロボロにほつれた"リボン"が、血と泥にまみれて、けれど確かに、彼女の指先に絡みついていた。



『えへへ、約束ですよ? 絶対、お揃いのやつにしましょうね』



「……あ、あああ……」


 言葉が、出ない。

 肺が凍りついたように、呼吸が止まる。


 視界の端で、遅れて到着したアルトが立ち尽くし、絶句しているのがわかった。


 静寂。

 命の灯火が完全に消え去った、絶対的な無。


 私は、その"スピカであったもの"を前に、崩れ落ちるように膝をついた。


 その指先が、まだ熱の残る、溶けた泥に触れる。


 あんなに温かかった彼女の体温は、もうどこにもなかった。


 間に合わなかった。

 魔法は、とっくに解けていたのだ。


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