28話「共犯者と共に」
◆◇◆
夜の街道に、荒々しい馬の呼吸と、風の音が響いている。
アルトは、立ち尽くしたまま、目の前の少女――ノクティア・サイレンス=グラスベルを凝視していた。
「……砦に戻る? 本気で言っているのですか」
彼の声は、震えていた。それは恐怖ではなく、あまりに無謀な提案に対する怒りに近い。
だが、ノクティアの瞳には、一切の迷いがなかった。
「本気よ。いい、アルト。『赤ずきん』を思い出して。悪い狼が一番隙を見せるのは、いつだと思う?」
「……さあ、それもまた、童話のお話ですか?」
その返答に、彼女は眉を寄せた。どうやら、伝わらなかったのが不服らしい。
「……答えはね、獲物を口にし、腹が膨れ上がった時よ」
それでも彼女は、その答えを口にした。
「……腹が膨れた時?」
「そう。勝利の余韻に浸り、欲望を満たし、強者としての傲慢が頂点に達したその瞬間こそが、猟師が狼の腹を裂く唯一のチャンス」
「……それが、勝機ということですか」
「ええ、今のアンタレスも同じだと思うわ。彼女はこの砦を蹂躙し、すべてを飲み込んで、今まさに最高の満足感の中にいる。……今こそが、あいつの"満腹"の時なのよ」
ノクティアが一歩歩み寄った、その目は、まるで得体の知れない獣のように。
「その理論が、正しかったとして」
彼は気圧されぬように、一度大きく息を吸ってから。
「"赤ずきん"の虚を、確実に突けることにはなりません。あいつがもし、我々のことを警戒し続けていたら、どうするんですか」
「そこについては、考えがあるわ」
そこで、ノクティアは一瞬だけ、目を泳がせた。
彼は理解する。きっとそれは策ではなく、願望なのだろうと。
「……スピカよ。あの子が戦っている間に、背後から狙うの」
「馬鹿な、お嬢様。残念ですが、スピカ・シューエはもう……」
「スピカは生きてるわ」
断言する。その言葉に確証などないはずなのに、己に言い聞かせるように力強く。
「スピカはきっと今も食らいついている。奴が追ってこないのが、その証拠よ。あの子が時間を稼いでいる間に、私たちが背後を突くの。今なら、アンタレスを仕留められる」
アルトは奥歯を噛み締めた。
デタラメだ。あんな化け物の慢心を突くのには、あまりに根拠が薄すぎる。
それは、ノクティアにも伝わっていたのだろう。だから彼女はカードを切る。彼女に残されていた、最大にして最強のカード――。
「……どうしてそんなに自信があるのか、不思議に思っているわね」
「ええ、それは、勿論。命を懸けるわけです、根拠は知っておきたい」
「なら、教えてあげるわ――」
――そして、それは。
可能ならば、切りたくなかったカードでもあった。
「――私も、アンタレスと同じ"姫"なのよ」
一瞬、空気が凍りついた。
アルトの隻眼が、驚愕に大きく見開かれる。
「……なんですって?」
「ずっと隠してきたわ。この力は、あまりに不吉で、私の代でもう終わらせるべきだと思っていたから。……けれど、もうそんなことは言っていられない。理不尽には、理不尽をぶつけるしかない。――姫と姫が戦うのよ、アルト。なら、勝機はあるわ」
ノクティアは、冷徹な仮面を被って嘘を重ねた。
自分には何の力もない。けれど、こうして"姫"を自称しなければ、アルトは決して引き返してはくれない。スピカの下へは辿り着けない。
「姫……貴女が、あの化け物共と同じ、最高戦力だというのですか?」
アルトの脳裏に、数々の疑念が渦巻く。
――ならば、なぜ今まで黙っていた?
――父上が殺される前に、なぜその力を使わなかった?
――スピカを置いて逃げる時、なぜ一人で戦わなかった?
喉元まで出かかった問いを、アルトは必死に飲み込んだ。
それを聞いてしまえば、この細い希望の糸が切れてしまう。
父を失い、家を失い、絶望の淵にいる彼にとって、目の前の少女が"隠していた力を持つ救世主"であるという嘘は、毒であっても飲み干さなければならない、唯一の聖水だった。
「……信じろっていうのかよ。その、あんたの言葉を」
「信じなさい。何度も言う、私は死にに行くつもりは毛頭ないわ。果たさなきゃいけない約束があるもの」
アルトは、ノクティアの瞳をじっと見つめた。
そこに宿っているのは、慈悲ではない。執念だ。
彼は、自らの判断が安直な"救い"に流されていることを自覚しながらも、それでも――逆回しに動き出した運命の歯車に、身を投じることを決めた。
「……わかった。あんたの言う"奇跡"ってやつに、賭けてやる」
共犯者。
いつか、ノクティアはアルトのことを、そう呼んだ。
それは、子供が揃って親に反抗するような、その程度の意味だったはずだが――今はもう、違う。二人は運命共同体。
安直な救済と、無鉄砲な嘘。噛み合って破滅へと向かう歯車――そういう意味での、共同体。
「おい! 馬車を戻せ! これよりレグルス砦へ引き返す!」
若き小隊長の叫びが夜の空気に響き渡る。
兵士たちの動揺を無視し、馬車は泥道を逆方向へと走り出した。
ノクティアは、窓の外を流れる闇を見つめ、懐に忍ばせた手紙を強く握りしめた。
(……ごめんね、アルト。私はまだ、何も持っていない)
けれど、この嘘を真実に変える。そうすれば何もかも、取り返せるのだから。
彼女の瞳には、かつての『こはる』にはなかった、苛烈な決意の光が止まっていた。




