27話「止まった時計が動く時」
手紙の裏面。そこに躍っていたのは、万年筆の端正な文字を追い出すように書き殴られた、不格好で、けれど力強い筆跡だった。
こんな筆跡は、見たことない。けれど、その文末に並んだ名前に、私は目を疑った。
「……スピカ!?」
そう、そこに記されていたのは、他でもないスピカの名前だった。
心臓が、喉元までせり上がるような衝撃に跳ねる。いつの間に、彼女はこんなものを書いたのか。
『これを読んでいるということは、きっと私はお側にはいないのでしょうね。
勝手にお手紙を読んでしまったこと、お詫びします。昨日の夜、お嬢様が寝ていることに気づかずお部屋に入ってしまった時、机の上にあったこの手紙が目に入ってしまったのです。
……驚きました。お嬢様の魂が、もうどこにもないなんて。
ずっと違和感はありました。でも、確信した時は、どうすればいいか分からなくて。
けれど、私は決めたのです。今の、あなたを守っていくと。
あなたは、戦士のような武力も、帝国の"姫"のような特別な力も持っていない。
それでも、震える足でオレオーン様に立ち向かい、恐ろしい"赤ずきん"を倒そうと必死に策を練っていた。
あんなに弱くて、あんなに優しくて……それでも戦おうとするあなたを見て、私は、あのお嬢様と同じくらい、あなたのことが大好きになってしまったのです。
だから、どうか自分を責めないでください。
あなたが誰であっても、あなたは私の大切なお嬢様です。
生きてください。逃げ延びて、いつか……いつか、大好きなこの国を救ってください。
あなたのお友達、スピカ・シューエより』
「…………っ、ばか、あの子……っ!!」
膝の上に、熱い涙がボロボロと零れ落ちる。
彼女は知っていたのだ。私が紛い物であることも、無力な『こはる』であることも。すべてを知った上で、あの子は私に命を預けてくれた。
預けてくれたのに、これだけの信頼に、私は報いることができなかった。
こんな。
こんな終わり方で、いいのだろうか?
偽物だと分かっていても、忠義を尽くし、私の側にいて守ってくれようとした彼女が。こんな最期を迎えることに、私は納得できるのだろうか?
「……ふざけるんじゃないわよ」
胸を焦がすような熱が、絶望に凍りついていた心臓を無理やり叩き起こす。
あんな場所で、終わらせてたまるものか。
元のノクティアが愛したこの国を、スピカが命を懸けて守ったこの私を、ただの"敗残兵"として終わらせていいはずがない。
スピカを――あの子を、どんな形であれ私の下に戻さなきゃいけない。そうしなければ、このお話は終われない。
その時、馬車の扉が荒々しく開いた。
夜風と共に、アルトが冷え切った顔で中を覗き込む。
「……出発しますよ。ぐずぐずしている暇はない」
無愛想に言い放ち、彼は私を無視して御者台へ向かおうとした。
私は座席に置かれた水筒を掴み、一気に水を飲み干すと、震える声で呼び止めた。
「――嫌よ。砦に戻るわ」
アルトの足が止まった。彼は耳を疑ったように振り返り、呆れたように鼻を鳴らした。
「その話は、終わったと思っていましたが。そもそも、そんなことをすれば、もうあなたについてくる兵士はいないでしょう」
「なら、私一人でも戦いに行くわ。近くまで送っていってもらえれば結構」
「……正気ですか。話を聞いていなかったのか? あそこには化け物がいる。死にに戻るというのですか?」
「ええ、戻るのよ。アルト」
私は馬車を降り、夜の街道に立った。
月明かりの下、私の瞳には、先ほどまでの絶望の影は微塵もなかった。代わりに宿っていたのは、すべてを焼き尽くすような、静かな、けれど昏い輝きだ。
「……なんで、引き返す必要がある。死に場所を探しているなら、他をあたれ」
「死に場所? おかしなことを言うわね、あなた。死ぬために戦うなんて、私はしないわ。私は、戦士じゃないもの」
「――っ、貴様!」
アルトが私を睨みつける。けれど、私の視線は彼を通り越し、遥か彼方の、黒煙を上げるレグルス砦を見据えていた。
「私が、あの場所に戻りたいのは、ただの感傷だけじゃないわ」
彼が次の言葉を口にする前に、その胸倉を掴み上げ、ぐい、と顔を寄せてから。
「今なら――あの"赤ずきん"を、倒せるからよ」
「な……っ!? 貴女、何を……!」
アルトが絶句する。
その瞬間、私の脳裏で、止まっていた時計の針が重厚な音を立てて動き出した。
それは、きっと私が遠ざけていた何か、諦めていた何かに向かって、踏み出したということなのだろう。秒針は心拍のように、忙しなく私を急き立てる。
「アルト、あなたは私のことを、希望と言ったわね」
「……はい。確かに、言いましたが、でもそれは――」
「なら、行きなさい。……今度は私が、貴方たちの希望を現実にしてあげるわ」
頭の中で、秒針の音が激しく、その音階を上げていく。
私の中で、運命という名の脚本が、激しく書き換えられていく音が響いていた。




