26話「手紙の行方は夜の底」
どれほどの時間が過ぎたのか、感覚はとうに麻痺していた。
不意に、絶え間なく続いていた馬車の揺れが止まった。
「……休憩です」
アルトが重い声で告げ、扉を開ける。外から入り込んできた夜気は、凍りつくように冷たかった。
「隣の馬車に、少しですが水と食料があります。……あなたも、休める時に休んでおいた方がいい。シルマまでは、まだ距離がある」
私は返事をしなかった。膝を抱え、ただ暗い車内の隅を見つめ続ける。
アルトはしばらく私を待っていたようだが、やがて短く溜息を吐くと、革製の水筒を座席に押し付けるように置いて、外へと歩き去っていった。
静寂。
時折、遠くで馬がいななき、兵士たちが小声で言葉を交わす音が聞こえる。
私は――本当に一人きり。孤独の暗闇の中で、自問自答を繰り返していた。
(どうして……どうして私は、ここにいるんだろう)
ただの女子高生だった『こはる』が、なぜこんな地獄に。
脚本を知り、紙背を読み、そうしていれば勝つことができる。そう信じていた。なのに、現実はどうだ。
オレオーンは死んだ。スピカも、あんな笑顔を残して消えてしまった。
帝国の"姫"――アンタレスは、理不尽なまでの魔法を操り、すべてを溶かして笑っている。きっと今も、あの砦で。
(私は……"姫"じゃない。ただ中身を入れ替えただけの、紛い物だ)
もし、私に本当の"姫"のような力があれば。もし、この体が最初から力に目覚めていれば、スピカを失わずに済んだのだろうか。
自分を責める思考の渦に飲み込まれそうになった時、ふと、胸元に硬質な違和感を感じた。
「……あ」
震える手で取り出したのは、昨夜、自室で見つけた、一枚の手紙だった。
高級感はあるものの、華美な装飾はない、慎ましくも美しい便箋に綴られた――それは、ノクティアが私に宛てた手紙だった。
あの時は、オレオーンを脅迫するための道具としてしか見ていなかった。けれど、今の私には、これが彼女の遺した唯一の体温のように感じられた。
私は火を灯す気力もなく、窓から差し込む僅かな月明かりを頼りに、その文字を追った。
『これを受け取ってくださった、もう一人の私へ。
あなたが誰であっても、今の私よりはずっと賢く、勇気ある方だと信じています。
どうか、私の愛するグラスベルの皆を、よろしくお願いします。
少々厄介な方々もいらっしゃいますが、皆、根は心優しい者たちなのです。
例えば、オレオーン隊長。
彼は厳格で頑固ですが、実はとても不器用な情愛を抱えた方です。
彼が密かに支援し続けていた西門の未亡人……。かつて彼が恋をし、けれど添い遂げられなかった女性。彼女は昨年の冬に亡くなりましたが、彼が贈った"翡翠の指輪"を、最期まで誇りとして身につけていたそうです。
今の彼には、もうその思い出を共有できる相手はいません。どうか、時折で構いませんから、彼の不器用な献身を労ってあげてください。
お父様には、お酒の量に気をつけるよう伝えてください。
最近は少し量が増えております。一日に二杯まで。それを超えるようなら、娘の言いつけとして厳しく節制させてくださいね。
そして――スピカのこと。
スピカは私の一番の親友であり、この世界で最も信頼できる女の子です。
彼女の忠誠は、義務ではありません。彼女の優しさは、本物です。
彼女のことは、無条件に信じて大丈夫。彼女は、あなたのためにすべてを捧げてくれるはずですから。』
読み進めるうちに、視界が激しく滲んでいった。
一文字一文字に、元のノクティアの、領民や家族に対する深い愛が溢れていた。
彼女は、自分が消えることを悟りながらも、遺される者たちの幸せを、見知らぬ"中身"に託していたのだ。
――翡翠の指輪。
それを脅迫の道具にしてしまった自分。
きっと、これは対立するべきでなく、彼の人情を信じろということだったのだ。
――二杯までのお酒。
それを伝えるべきお父様も、領地も、このままでは泥に沈む。
私の失策で、オレオーンやスピカが死んだことを聞けば、グラスベル伯は何と言うだろう。失望するのか、それとも憤るのか。
――そして何より、一番の親友。
その一番大切な人を、私は守れなかった。
何も、ノクティアが大切にしていたものを、守れない。愚かで臆病な私では、これ以上手を伸ばすこともできはしない。
「……っ、ごめんなさい……ごめんなさい、ノクティア……!」
胸を掻きむしるような痛みが、私を襲う。
彼女がどれほどの思いで、この身体を、この人々を託したのか。それを台無しにしてしまったのは、他ならぬ私だ。
私は水筒の水を一口も飲めぬまま、ただ手紙を抱きしめて泣きじゃくった。
どれほど泣いたのか。
涙で濡れた手紙を折り畳もうとした時、指に僅かな違和感を覚えた。
手紙の裏面。
月明かりの下で裏返したその紙には、万年筆の跡ではない、もっと荒々しく、けれど切実な――誰かが"後から書き足した"ようなメッセージが、びっしりと記されていた。
「これ……は?」
そこには、ノクティアの優雅な筆致とは違う、けれどどこか見覚えのある、真っ直ぐな筆跡が残されていた。
その最初の数行が目に飛び込んできた瞬間、私の心臓が、再び激しく鼓動を始める。




