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25話「カボチャの馬車は泥を這う」

 不快な振動が、意識の端を揺さぶっていた。


 ガタゴトと、規則的に繰り返される車輪の音。肺に吸い込む空気は冷たく、けれどどこか焦げた臭いが染み付いている。


 頭が、酷く重かった。まるで、錆びついた時計のように、ほんの少し動かそうとするだけで、ギシギシと痛む。


 ゆっくりと瞼を持ち上げると、そこは馬車の中だった。


 狭いキャビン。向かいの座席には、汚れた軍装のまま、眉間に深い(しわ)を寄せて目を閉じているアルトの姿があった。


「……アルト」


 私の掠れた声に、彼は弾かれたように目を開けた。その瞳には、かつての冷静な理知ではなく、拭い去れない疲労と、暗い熱が宿っている。


「……目が覚めましたか、ノクティア様」


 彼の声は低く、淡々としていた。それが逆に、私の心臓を激しく叩かせる。


「ここは……どこ? 砦はどうなったの?」


「ここはレグルスとシルマを繋ぐ街道の途中です。……砦は、陥落しました」


「……陥落、そんな」


「……生き残りの兵士から話を聞きましたが、正門の防衛戦は文字通り"消滅"したとのことです。あれが――帝国の"赤ずきん"」


 アルトは一度言葉を切り、震える拳を膝の上で握りしめた。


 私の記憶にも、ありありと焼き付いている。あらゆる暴力を、策を、命を溶かして進む、赤い閃光。


 相対して、初めてわかる――私たちとは"違う"存在。


「……我々は今、シルマへ向かっています。あそこならまだ守備兵がいる。籠城戦に移行すれば、多少は抵抗ができるはずです」


 籠城。抵抗。


 彼の言葉が、遠い国の物語のように頭をすり抜けていく。そんなことより、もっと、もっと大切な――。



「……スピカは?」



 その名を口にした瞬間、アルトの表情がピクリと凍りついた。


 私は座席から身を乗り出し、彼の腕を掴んだ。


「スピカはどこ? あの子、後から追いかけてくるって言ってたわ。……ねえ、別の馬車に乗ってるの? それとも、後ろの部隊に?」


「……スピカ・シューエは、未だ戻りません」


 アルトが、視線を逸らす。


「戻らない……!? それって、どういう……」


「おそらくは……。あの状況で、単身"姫"を相手に時間を稼ぐなど、土台無理な話だったのです」


 私の脳裏に、最後の景色がフラッシュバックする。


 微笑むスピカ。リボンの約束。そして弾ける、灰と赤の火花――!


「……助けに行かなきゃ。あの子、一人で待ってるわ。私、約束をしたのよ、一緒に買い物に行くって! あんなところに置いていけるわけないじゃない!」


 私は狂ったように馬車の扉に手をかけた。外へ飛び出して、あの地獄へ戻らなければならない。今ならまだ、間に合うかもしれない。


 けれど、アルトの無骨な手が、私の腕を強引に引き戻した。


「なりません、ノクティア様! 貴女にはまだ、この後の戦いでお知恵を借りなければならない。貴女まで失えば、グラスベル領は本当に終わる!」


「そんなの知ったことじゃないわ! スピカが、私のたった一人の友達が死んじゃうのよ! 離して、行かせてよ!!」


 叫び、暴れる。


 策略家? グラスベル領? そんなもの、一文の価値もない。


 私はただの、星河こはるだ。また、間に合わないのは、もう嫌だ――。



「――っ、うるせえなッ!!」



 鼓膜を(つんざ)くような咆哮(ほうこう)


 今まで、どんな時も冷静に、敬語を崩さなかったアルトが。


 私を、少なくとも最低限は、伯爵令嬢として敬っていたはずの彼が、顔を真っ赤に染めて私を怒鳴りつけた。


「……ッ!」


 衝撃に、言葉を失う。


 目の前のアルトは、もはや"小隊長"としての彼ではない。


 そこにあるのは、傷つき、打ちのめされた、ただの、年相応の少年の顔だった。


「そういうもんなんだよ、戦争ってのは……! 想定外の化け物が現れて、守りたかった奴が、一瞬で、ゴミみたいに死んでいくんだよ!」


 アルトの声が、嗚咽混じりに震える。


「俺も……俺だって、親父を亡くした! 誰よりも頑固で、頭でっかちで、誰よりも強かった……俺の誇りだった親父の死に様が、あんな……っ! 泥みたいに溶かされて、墓に葬ってやることも、骨を拾ってやることもできねえんだぞ……ッ!」


 彼は私の腕を離し、顔を覆って崩れ落ちた。

 

「わかったら……大人しくそこにいてください。ノクティア様……いや、アンタ……。あんたがどれだけ無力でも、策を外して、失敗したとしても。……あんたは、俺たちの、最後の希望なんだから……!」


 静寂が、馬車の中に落ちる。

 車輪の音だけが、虚しく夜の闇を刻んでいた。


 アルトの叫びは、私の胸の奥に(おり)のように沈んだ。

 彼もまた、すべてを失ったのだ。


 そして私は、そんな彼の"希望"であることを強要されている。


(――これは、きっと、呪いだ)


 そう、強く思う。きっとあの日、ちはるを救えなかった、そして、ノクティアの魂を食い潰し、何もできていない、私への呪い。


 ならばこの痛みもまた、甘んじて受け入れるしかないのだろう――。


(……ごめんね、スピカ。ごめんね、ノクティア)


 私は膝を突き、冷たい馬車の床を見つめた。


 馬車は止まらない。


 私を絶望から遠ざけるためだけに、ガタゴトと、無慈悲に泥道を這い続けていた。

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