24話「砕けたガラスと灰色の星」
もうもうと立ち込める爆煙と、崩落した石材の山。
静寂が、まるで降り積もる雪のように辺りを支配する中、階下から、煤を払うような低い声が響いた。
「……お嬢様、いつまでそこにおられるおつもりで?」
オレオーンの声。彼は溶けかかった鎧を軋ませながら、瓦礫の山を見上げて私を仰ぎ見ていた。
その瞳には、もはや私を"子供"と侮る色は微塵も残っていない。
「……すぐに降りるわよ、少し思い耽っていたの」
「それは、安全圏に帰ってからにしていただけると助かりました。流石に、この戦いは危険が過ぎました」
「でも、勝てたのは私のお陰でしょう?」
「危険だったのも事実です。朝には、グラスベル伯の下にお帰りいただきます。御身に何かあれば、私の首では済みませんからな」
「何ですか、今さら、お嬢様扱いなんて、あんまりですわ。此度の戦い、私は――」
「ええ、ええ、言わずとも、わかっておりますとも」
きっと、思わず頬が膨らんでいたのだろう。
そんな私の、幼稚な憤りを宥めるように、オレオーンは不器用に口角を上げ、わずかに頭を下げた。
「……なに、今後は、軍議の席でも何かと頼りにさせていただくつもりです。何卒、よろしくお願いいたしますぞ」
それは、誇り高い戦獅子が私に送った、最大限の謝意と信頼の証だった。
私は震える足で立ち上がり、頷き返す。
この戦いは徒労ではなく、得るものは確かにあったのだ。
少しくらいは、この身体――ノクティアの命に、報いることができただろうか?
「お嬢様、早く降りてきてくださいぃ……。私、今日はもうクタクタですよぉ」
不意に、スピカの間の抜けた声が響く。あまりに緊張感を欠いたその響きに、思わずクスリとしてしまう。
そうだ。早く、彼女の下に戻ろう。私だってくたびれているのは一緒だ。とりあえず、何か冷たいものでも飲みたい。
「ええ、そうね、スピカ。私もそろそろ、休みたいわ……」
私が階下へ降りるための階段へ向かおうとした――。
「――おい。まさか、アタシを倒したつもりになっちゃいないよな?」
――刹那。
瓦礫の山の底から、心臓を直接凍らせるような声が響いた。
「な……っ!?」
答えを返す暇もなかった。
ドロリ、と。
数トンの岩石が、そしてその傍らにいた数名の兵士たちが、一瞬にして形を失った。
爆発も、衝撃もない。ただ、存在そのものが"沸騰した泥"へと書き換えられたのだ。
「っ、貴様ッ!!」
オレオーンが剣を構える。しかしそれよりも、赤い影が地獄の底から湧き上がるほうが、ずっと速かった。
絶望の指先が、分厚い胸板に触れる。それと同時に、グラスベル領が誇る歴戦の勇士――タラゼド・オレオーンは、その輪郭を失った。
末期の言葉もなく、怨嗟の叫びもなく。
"戦獅子"と恐れられた戦士は――一握の泥へと帰っていった。
「貴様も何様もないっつーの、無様なオッサン。雑魚は雑魚らしく、黙って死んどけって」
泥を踏み潰し、アンタレスが姿を現す。
苛立たしげに指を鳴らし、その言葉には、明らかな怒気と憤りが滲んでいた。
「――アンタレス……! あんた、なんで……!」
「腹に石を詰める、だったっけ? いい案だけどさ、そりゃ、狼の殺し方だろぉ? アタシは、"赤ずきん"だっつーの!」
「……っ! でも、流石にあれだけの爆発、無事で済むわけ――」
「――済むさ。あんたたちがこんな狭苦しい所に誘導してくれたお陰で、身を守るもんにゃ、事欠かなかったからねぇ!」
瓦礫で閉じ込める、その策が裏目に出たということか。
策も、奇襲も、何もかも通じない。圧倒的力、圧倒的理不尽。
それが、"姫"。
死を振りまく災厄、"どろけてしまった赤ずきん"。
「あーあ、もうちょい、遊ぶつもりだったけど、もういいや。アタシの服、煤だらけになっちゃったし、そろそろ、幕引きにしようぜ」
気怠げに、アンタレスは口にする。それは、時間切れの合図だった。
同時、彼女の足元から、"溶解"が広がる。今までよりも速く、爆発的に。
石造りの床が、梁が、世界を支えていた骨組みが、瞬く間に飴細工のように溶け落ちていく。
「きゃああああっ!!」
足場を失い、私は階下へと真っ逆さまに落下した。
背中から硬い石畳――いや、溶けかかった泥の地面に叩きつけられ、肺の空気がすべて押し出される。
激痛。視界が真っ赤に明滅し、指一本動かすことができない。
「あーあ、ひどい顔。べっぴんさんなのに、もったいなぁ」
溶解液をまき散らしながら、アンタレスが私へと歩み寄ってくる。
なのに、指一本動かない。頼りのオレオーンは、死んでしまった。
万事休す。あらゆる策が尽きた私に、死を運ぶ紅蓮の影が、ゆっくりと近付いてくる。
ここで終わりか、と諦念が過ぎる。どれだけ頭を回しても、解決策は思いつかない。
ああ、やっぱり私は駄目だった。
(――ごめんね、ノクティア)
そうして、目を瞑ろうとした――。
「――お嬢様には、指一本触れさせませんっ!!」
――瞬間、私の視界を遮るように、銀色の閃光が躍った。
剣を構えて、悍ましい死の脅威の前に立ちはだかる、小さな影。
私が最も信頼する、懐刀――スピカが、そこに立っていた。
「スピカ……逃げ……て……」
「ダメです、ここは私に任せてください。お嬢様は早く、離れてください」
「できるわけないでしょ、そんなこと……!」
スピカの実力は知っている。
けれど、それはアンタレスという死の化身を相手にできるほど、斜めに外れたものではない。
戦えば確実に――命を落とす。
(考えろ……! 何か、何かないか――)
そう、思考を回す私の間に、一人の青年が飛び込んできた。
「おい、何事だ! 一体、何が……!」
現れたのは、アルトだった。
恐らく、砦内のただならぬ雰囲気を感じ取り、血相を変えて駆けつけてきたのだろう。
「アルト……! いい所に、助け――」
「アルト様! 帝国の"姫"です! お嬢様を、お願いします!」
私よりも早く、スピカが叫ぶ。
アルトは、それだけで全てを理解した様子だった。力の入らない私の体を担ぎ上げ、持ち上げようとする。
「ちょっと、離して! スピカが……!」
「駄目です、お嬢様。ここで戦えば、我々は皆、死ぬでしょう」
「でも、このままじゃ、あの子……」
「いいから、早く行くぞ! あいつの犠牲を、無駄にするな!」
荒々しい口調。弱った私では、それに返すことすらもできなくて。
ただ、黙って手を伸ばす。それでも遠い。私のガラスの靴は、もう手の届かないところに行ってしまったかのように。
「で、アタシ偉いから、待ってやってんだけどさぁ」
不吉な影が、殺気を放つ。
「そろそろ、お話終わったぁ? 誰が来たっていいけど、どうせ追いかけて、全員殺すし」
「……させません、ここから先は私――"灰刃"スピカ・シューエが、一歩たりとも!」
駄目、駄目だ、絶対に駄目。
止めなきゃいけない、止めなきゃいけないのに、私の体は動かない。肝心な時に、私はどうして、いつも――。
「――っ、撤退だ。急ぐぞ!」
アルトが動けない私の体を強引に抱え上げ、そのまま走り出す。一瞬だけ見えた、その表情は苦悶に歪んでいた。
遠ざかっていく、赤い影と、小さな銀色の背中。
「……スピ、カ……」
私は必死に、彼女へと手を伸ばした。
その時。
スピカが、振り返った。
死地に取り残された恐怖など微塵も感じさせない、穏やかで、寂しそうで。
けれど、私を逃がせたことに心底安堵したような。
この世界で私が出会った、誰よりも綺麗な笑顔だった。
彼女の唇が、音もなく動いた気がした。
――お揃いのリボン、楽しみにしてますね。
「あっそ、んじゃ、お前から死ね――!」
アンタレスが加速する。赤い閃光が、灰銀の風とぶつかり合う。
また、大切なものが指からすり抜けていく――その絶望と共に、私の意識は、プツリと、深い闇の底へと断絶された。




