23話「石を詰めろ」
◆◇◆
「……あれ? いなくなっちゃった」
アンタレスは、ドロドロに溶け崩れた廊下の中央で、退屈そうに首を傾げた。
つい先ほどまで視界に捉えていた、あの"銀髪の姫"と"その従者"の気配が消えている。
「逃げ足だけは速いんだから。追跡戦は好きだけど、あんまり長いと飽きちゃうんだよねぇ」
彼女が苛立ちを込めて壁を蹴ると、強固な石造りの基柱が飴細工のようにひしゃげ、溶け落ちる。
アンタレスは気づいていた。自分が、砦の深部へと誘導されていることに。
ここは道幅が狭く、天井も低い。溶解の魔法を使えば使うほど、自分自身の足場や頭上が崩落し、動きを制限される場所。
「……アタシをここに誘い込んで、生き埋めにでもするつもり? バカじゃん、そんなの、全部溶かしちゃえば同じなのに」
アンタレスは口角を吊り上げた。
遊びは終わりだ。この一帯の"形"をすべて奪い、巨大な泥の池に変えてしまえば、隠れている鼠共も這い出してくるだろう。
そんな打算と――僅かな苛立ち。力を持たない"姫"が、知恵と工夫で自分を打倒しうると、そう本気で考えていることに対する、ある意味傲慢な憤り。
「――アンタらみたいなカスが、アタシに届くわきゃねえだろうが……ッ!」
彼女が深呼吸をし、全身から"溶解"の熱を解放しようとした、その刹那。
「――全軍、突撃ッ!!」
正面の闇を切り裂き、鋼の咆哮が響いた。
「……っ!?」
現れたのは、オレオーン率いる十数名の重装騎士たちだった。
彼らは命を投げ出すような勢いで、溶けかかった地面を蹴り、アンタレスへと肉薄する。
「あはは! 何かと思えば、まだそんなゴミみたいな鉄屑で、アタシに触れると思ってるの!?」
アンタレスが手を振る。
先頭を走っていた兵士が、悲鳴を上げる暇もなく"肉の泥"と化して床に広がる。二人目、三人目。鎧ごと溶かされ、蒸発していく部下たちの残骸を踏み越えて、オレオーンが吼えた。
「――今だッ!!」
オレオーンの剣が、アンタレスの鼻先でドロリと溶けて砕ける。
アンタレスは愉快そうに笑った。
これが本命か。
自分をここに足止めし、この老いた獅子が自爆覚悟で組み付くつもりなのだと、彼女は確信した。
帝国の"姫"である自分を相手に、これ以上の策など人間には思いつくはずがない。
「ざーんねん。おじさんの勇気じゃ、アタシの靴一足分も溶かせないよ」
「……ああ――」
アンタレスの意識が、目の前のオレオーンに完全に固定される。
彼女の全神経が防御と、目の前の敵を消し去る攻撃へと集中した。
「――だろうな」
その直後。
「……あれ?」
アンタレスの瞳が、一瞬だけ泳いだ。
オレオーンの後ろに、あの従者の姿が見えた。
しかし、一番大切な"主役"の姿が、どこにもない。
(あの銀髪の女……どこに――)
視線を上へ向けようとしたときには、もう遅かった。
「――狼の腹には、石を詰めろ」
頭上の、崩れかけた吹き抜けの二階部分から、冷徹な声が降ってきた。
アンタレスの視界に飛び込んできたのは、銀色の円筒形。
彼女の仲間たちが持ち込み、ノクティアが回収した薬塩爆弾。一般的な火薬の数倍の破壊力を持つ、怪物をも殺しうる刃。
「ある意味鉄則よね。『七匹の子山羊』でも、それこそ『赤ずきん』でも、狼を殺す術は、これだと相場が決まっている」
「っ……アンタ、どうして、それ――」
「お返しするわ、あなたのお友達が、置いていったからね――!」
アンタレスが掌を向けようとするが、爆弾はすでに彼女の頭上に達していた。
放たれた"溶解"の力が、爆弾の信管を刺激し、そして。
――カチリ。
次の瞬間、アンタレスの視界が真っ白な閃光に塗り潰された。
至近距離での大爆発。
薬塩の反応による凄まじい衝撃波が、アンタレスの小さな体を直撃し、さらに崩落した数トンの石材が、彼女を飲み込むように崩れ落ちた。
◆◇◆
地響きと共に、通路が完全に埋まる。
爆煙と埃が立ち込める中、私は二階の縁に身を乗り出し、喉を焼くような煙を吸い込みながら、その瓦礫の山を見下ろした。
「……や、やったんです、か?」
階下のスピカが、肩で息をしながら呟く。
私はその様を見下ろしながら、少しずつ息を整えていく。
やった、はずだ。
爆弾の破壊力は、予想以上だった。たった一つで、これだけの威力。アルトが言っていた、砦を落とせるだけの力というのも、あながち誇張とは言えないのかもしれない。
「ああ、やった、やりはしたが……」
オレオーンが苦々しげに呟き、周囲を見渡す。
周囲にのたくるのは、"肉の泥"に変えられた兵士たち。彼らを救う術は、もう存在しない。
「……被害が大きすぎる! 外の兵士も含めれば、幾人死んだかわからんぞ」
吐き捨てる彼の言葉を聞きながら、私は静かに頷いた。
オレオーンの言う通りだ。従来から数十分、その程度の時間で、"赤ずきん"は幾百もの命を奪い去った。
もし、作戦が失敗していたら――私たちは全滅していた。
「……くそっ、これでは、次の連中の侵攻を受け止めきれん!」
オレオーンは、僅かに生き残った兵士たちに指示を飛ばす。
「裏の警備に回していた、アルトの隊を呼んでこい。騎乗できる馬が残っている者は、急ぎシルマに戻り、援軍の要請を――」
目まぐるしく動く状況の中でも、私は動けない。
目が離せなかった、この夜半を溶かし尽くした、驚異の襲撃者。規格外の存在が眠る――瓦礫の下から。
物語の通りなら、悪い狼は腹に詰められた石の重みで、二度と立ち上がれないはずだ。
だというのに――まだ、心臓は高鳴っている。
「――これが、"姫"」
仕留めた後ですら、全身を襲う怖気が消えない。
爆発の光に焼かれた網膜の裏側で、アンタレスが最後に浮かべた"驚愕"の表情が、何度もフラッシュバックしていた。




