22話「融解、悪夢、アンタレス」
「今の、何の音……!?」
鼓膜を揺らす爆音に、私はベッドから跳ね起きた。
衝撃で部屋の調度品が悲鳴を上げ、天蓋から埃が舞い落ちる。安寧な世界は表情を変え、不安定に揺らぎ始めていた。
「お嬢様、危ない!」
即座に、スピカが私を庇うように抱き寄せた。彼女の瞳からは先ほどまでの安らぎは消え、抜き身の細剣が月明かりを浴びて青白く輝いている。
「何か、あったのかしら。もしかすると、正門で……?」
「……わかりません。でも、帝国側はもう、余力はないはずですけど」
「……オレオーン隊長の所にいきましょう。あの人の元になら、何か情報が集まっているはずよ」
私たちは客室を飛び出した。アルトはまだ、裏口の断崖で部隊の指揮を執っているはずだ。この場には、私とスピカしかいない。
――そして、同時に、異変に気がつく。
廊下には、不気味なほどの"熱"が満ちていた。
そこかしこから兵士たちの悲鳴が響き、どこか遠くで石造りの壁がドロドロに崩れていくような、湿った音が聞こえる。
「……っ、これ、は……」
廊下の角を曲がったところで、私は息を止めた。
そこには、一人の兵士が転がっていた。
いや、彼はもう"人"の形をしていなかった。鎧は飴細工のように溶けて石畳に癒着し、その中に肉と骨がグチャグチャに混ざり合っている。
まるで、巨大な怪物の胃液を浴びせられたかのように。
一体、何をどうしたら、人間がこんな風になってしまうのか――そう、私の思考が困惑に沈んだ、その瞬間だった。
「……あら。まだ生きてるの、いるじゃん」
立ち込める不気味な煙の向こうから、一人の少女が軽やかな足取りで現れた。
鮮やかな、赤い頭巾。顔の半分を包帯で覆い、退屈そうに指先で髪を弄っている。
彼女は私と同じくらいの背丈だった。その視線が私を捉えた瞬間、包帯の隙間にある瞳が、好奇心に細められた。
「あれえ? こんな砦に、女の子ォ? めっずらしぃ〜……ま、アタシが言えたクチじゃないか」
「……あ、あなた、何を」
「って、アタシのことを見て、女の子扱いするやつなんていねぇよ、ってな、ギャハハハ!」
不気味に背を反らして笑う少女に、私は思わず、一歩後退りしてしまった。
なんだ、あれは。
疑問よりも、はるかに色濃く――恐怖が湧いてくる。
数十秒、そうして笑い転げていた彼女は、不意に、ピタリと動きを止めた。そして、まるで今思いついたとでも言いたげに口を開く。
「あ、もしかしてアンタ、王国の"姫"? うっそ、やだ。こんなとこで会敵できるなんて、運命的ぃ〜」
少女は私の不格好な鎧を眺め、クスクスと喉を鳴らした。
「アタシはアンタレス・ヴォルフ=レッドキャップ。人呼んで、"どろけてしまった赤ずきん"。よろしくね、お姫様」
「――『赤ずきん』!?」
「そ、生憎、狩人様は助けに来てくれなかったけどねぇ!」
"姫"。
それは、私と同じ。この世界の人間の肉体に、別世界の人間の魂が宿った存在。
裏付けを取るまでもない。だってこいつは、この世界の人々が知るはずのない童話を知っている――。
「んじゃ、ま。"姫"が相手なら手加減はいらないよねぇ」
お伽話の中の無垢な名前を冠したその少女が、壁に手をついた。
刹那、強固なはずの石壁がジュウ、と音を立てて真っ黒な液体へと変わり、流れ落ちる。
(……理不尽だ。こんなの、どうしようもない)
思考が白濁する中、一人の兵士が私たちの間に割り込んできた。
「ノクティア様、お下がりを! ここは我らが――」
「あ゛ぁ? 邪魔だよ、おっさん。今は女の子同士でお喋りしてるんだから」
アンタレスが指先を向けた。
ただそれだけで、剣を構えていた兵士の全身が、一瞬にして粘土のようにどろりと溶け、崩れ落ちた。
叫び声すら、液体の中に沈んで消えた。
「ひ……っ! スピカ、逃げるわよ!!」
私はスピカの手を強く引き、反対方向へと駆け出した。
背後から聞こえて来たのは、呆れたような声と、溜め息だった。
「なあに、拍子抜け。腰抜け、後は頭のネジでも抜けてんのぉ? "姫"なら、真っ向から――」
そこまで口にしたところで、声色が変わる。
「――ああ、あんた、"力"使えないんだ。なんだ、出来損ないじゃん、つまんないの」
納得したような気配と、玩具に興味を失う子供のような声。
追ってくる気配はない。しかし、背中を焼くような熱気は、退く様子もなかった。
触れられれば、一瞬で"肉の泥"に変えられる。理屈を無視した災厄が、すぐ後ろにいる。その事実が、私の足を加速させる。
必死に廊下を駆け抜け、中庭へと飛び出したところで、私はオレオーン隊長が率いる一団と合流した。
「ノクティア様! ご無事か!」
「オレオーン隊長! そちらこそ!」
心に、安堵の熱が広がった。しかし、ここで足を止めるわけにはいかない。
「あれは……あれは人が戦える相手じゃありませんわ! 何もかもを溶かして……っ!」
「状況はこちらも把握しております! おりますが、しかし……」
オレオーンの鎧も所々が焼け、彼の精強な部下たちの数も、半分以下に減っていた。
逃げているだけでは、いずれ全員が溶かされて終わる。この砦全体が、彼女の"獲物の腹"なのだ。
どうにかしなければ、私は必死に、頭の中にある物語のページをめくる。
この砦そのものが、あの災厄の腹の中だと言うのなら。私には一つ、閃くものがあった。
「……隊長、一か八かの策がありますわ」
私は肩で息をしながら、部屋から出る時に掴んできた背嚢を指差した。
そこには――先ほど回収した、銀色の筒が入っている。
「策だと? 剣も魔法も効かぬ相手に、何ができるというのです!」
「童話『狼と七匹の子山羊』の結末と同じですわ。……悪い狼を倒すには、腹の中に重い石を詰め込むんです」
「童話? 子山羊? 何の話で……」
アルトは、これを爆弾だと言っていた。
それも、使い方次第で、この砦すら吹き飛ばせる。そんな恐ろしい代物を震える手で示し、叫ぶ。
「彼女は触れたものを溶かす。なら、彼女を狭い通路に誘い込み、頭上から全ての爆弾を投下するんです! 彼女自身の熱で爆弾を起爆させ、融解した瓦礫の山――石の腹の中に閉じ込める!」
直接ぶつければ溶かされる。けれど、彼女が"溶かしてしまう"性質そのものを利用して、周囲の石材ごと爆破に巻き込み、物理的な質量で封じ込める。
オレオーンは私の目を見て、一瞬だけ躊躇い、そして吼えた。
「……全軍、ノクティア様の指示に従え! あの赤い化け物を、石の腹の中に沈めるぞ!」
その声と共に、一同は駆け出した。




