20話「いつか解けてしまう魔法」
割り当てられた客室は、砦の石壁に囲まれた、殺風景で冷たい部屋だった。
使い込まれた木の椅子に腰を下ろした瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私は自分の膝が笑っていることにようやく気が付いた。
「……お嬢様。もう、無理しなくていいですよ」
スピカが濡れタオルを持って歩み寄ってくる。彼女は私の震える手をそっと取り、汚れを拭いながら、包み込むように握りしめた。
「お嬢様が、あんなに強い言葉で軍人さんたちを動かして……本当は怖くて仕方なかったこと、スピカはちゃんと分かってますから」
「……バレてた?」
「もちろんです。ずっとお側にいるんですもの」
スピカは困ったような、けれど慈愛に満ちた笑みを浮かべて私の顔を覗き込んだ。
「私には、お嬢様のことがなーんでもわかるんです。もう、長い付き合いですし」
「……そう、どれくらいに、なるんだったかしら」
「10年ですよ。ほら、あの時……って、そうですよね。お嬢様は、記憶が……」
スピカはそこで一度、言葉を切った。
そして、私の隣に腰を下ろし、ゆっくりと体重を預けてくる。
「昔、私が戦争で親を亡くしてお屋敷に来た時……絶望して、毎日泣いてばかりいた私を、今のようにお側に置いて慰めてくれたのは、お嬢様だったんですよ。だから、今度は私が支える番なんです」
――心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
その温かい言葉が、今の私には鋭い刃のように突き刺さる。
スピカが慕っている"お嬢様"は、もうどこにもいない。彼女を救い、支えてきた大切な思い出の持ち主を、私は"中身"ごと塗り潰してしまった。
「……ごめんね」
溢れ出した涙が、スピカの手の甲に落ちた。
「ごめん、スピカ。私……何も、覚えてなくて。そんな大切なことまで、忘れてしまってて……ごめんなさい」
私はたまらず彼女を抱きしめた。
スピカの体は小さくて、けれど、先程あれだけの命を奪ったとは思えないほど温かかった。
(……ごめん、私は偽物なの。君が愛している人は、もういないの)
そんな告白すらできない臆病な自分への嫌悪で、視界が滲む。
「……いいんですよ、お嬢様」
スピカは優しく、私の背中をさすってくれた。
「ちょっとずつ、ちょっとずつ思い出していきましょう。もし思い出せなくても、また新しい思い出を積み重ねればいいんです。スピカはずっと、ずっとお側にいますから」
その無垢な献身が、胸を締め付ける。本当はもう、ノクティアはどこにもいないのに。
私は顔を上げ、彼女の細い肩に手を置いた。その時、彼女の髪を縛っているリボンが、無惨にほつれているのが目に留まった。
「……リボン、さっきの戦いで傷付いちゃったのね」
「あ、本当だ。……気づきませんでした」
「この戦いが終わったら、すぐにシルマの市へ行きましょう。今度こそ、一番素敵なリボンを私が選んであげるから」
「えへへ、約束ですよ? 絶対、お揃いのやつにしましょうね」
小指を絡め、私たちは儚い未来を誓い合った。
そのリボンの糸が、まるで今にも消えてしまいそうな、この束の間の平和そのものに見えて――。
◆◇◆
同時刻、砦の最上階。
タラゼド・オレオーンは、静まり返った戦場を睨みつけながら、消えない苛立ちに苛まれていた。
地図の上に並ぶ駒は、王国の圧倒的勝利を指し示している。
だが、ノクティアが去り際に遺した言葉が、呪いのように頭から離れない。
――狼は、自分たちが勝つことを一分の隙もなく信じている。
(……理屈に合わん。帝国の重装甲車は潰した。補給線も断った。だが、なぜ奴らは退かぬ……?)
――まさか。
脳裏に一つの、最悪の可能性がよぎる。
装備も、大袈裟な補給線も必要ない。常識も、軍略も、地形の利すらも鼻で笑い飛ばす、理不尽の化身。
"姫"という名の、歩く天災。
「……いや、あり得ん。あの化け物をこんな辺境に投入するなど……」
己の臆病さを否定するように、オレオーンが首を振った、その時だった。
――ドォォォォォン!!
砦全体を震わせる、巨大な爆鳴。
それは正面から撃ち込まれる砲撃の音ではなかった。
まるで、世界が悲鳴を上げているかのような、地響きを伴う轟音。
「な、何事だ!?」
司令室の扉が跳ねるように開き、一人の伝令が転がり込んできた。
その姿を見た瞬間、オレオーンは息を止めた。
鋼の鎧が、ドロドロの飴細工のように溶け落ち、剥き出しの肌から紫煙が上がっている。
鉄も、石も、そして人の肉体までもが形を失い、グチャグチャに混ざり合った"何か"と化した兵士。
「……ほう、こく……! ぜん、もん……ぼう、えい、せん……っ!」
血の泡を吹きながら、伝令は絶望の報告を絞り出した。
「……ぜん、めつ。……たった一人に……なにもかも、どろどろに、溶かされて……っ!」
オレオーンの顔から、血の気が一気に失せた。
脂汗が滝のように流れ落ち、かつての戦獅子の唇が、ガチガチと音を立てて震え始める。
「――ついに、来たか」
彼は、絶望と共に理解した。
現れてしまったのだ。
どんな展開も踏み潰す災厄、理不尽の権化――"どろけてしまった赤ずきん"が。




