19話「静寂という名の毒」
司令室の重い扉を押し開けると、そこには冷え切った夜気とは対照的な、重苦しい空気と熱気が充満していた。
卓を囲む将校たちが一斉にこちらを振り返る。その視線には、昨夜までの侮蔑や無関心はなかった。代わりにあったのは、困惑と、そして隠しきれない畏怖だ。
けれど、臆してはいられない。私は卓上に、"戦果"を投げ出す。
「あら、皆様お揃いで。丁度いいですわ、お見せしたいものがございましたので」
恐らく、死体を触った際に、私にも血がついたのだろう。加えて、脇に控えるスピカは返り血塗れだ。
箱入りの貴族令嬢の戯言――そう考えていたであろう彼らに、効果は覿面だった。
中央に鎮座するオレオーンは、私が卓の上に置いた、血の滴る徽章をじっと見つめ、長く、重い溜息を吐き出す。
「……驚きましたな。まさか、本当に襲撃があったというのですか」
「見ての通りですわ、オレオーン隊長。あなたならば、真贋の見分けはつくのではなくて?」
オレオーンの指が、徽章に伸びる。赤く染まるのも厭わず、しばらく眺めた彼は、そのまま視線を、私の方に移した。
「……どうやら、今回は救われたようですな、ノクティア様。裏の断崖には、確かに帝国の鼠共が這い上がってきていた」
「ええ、そうよ。認めていただけたかしら?」
彼は岩のような拳を握り、苦渋を滲ませながら言葉を継いだ。
「認めよう。この老いぼれの目は、目前の戦火に曇っていたようだ。……命を拾った。恩に着る」
あの頑固な"戦獅子"が、軍人としてのプライドをかなぐり捨て、私に向けて深く頭を下げた。
周囲の将校たちは目を見開き、スピカが誇らしげに胸を張る。
どうやら、私の作戦は上手くいったらしい。確かな安堵が、胸を満たすのがわかった。
しかし、ここで満足するわけにはいかない。策略家として信頼を得るためには、もう一押しが欲しいところだ。
「……隊長、前門の状況はどうなっているのですか?」
ひとまず、といった調子で投げかけた私の問いに、オレオーンは再び卓の上の地図に視線を落とした。その表情には、一点の曇りもない自信が戻っていた。
「順調です。夜通し攻勢をかけてきておりましたが、奴らは夜戦の準備が不十分だった。先ほど、全ての重装甲車が後退を始めましたからな」
「……準備が不十分なのに、野戦を?」
「大方、意地になっているか、上官にでも叱り飛ばされたのでしょう、壊れかけの兵器でダラダラと戦線を維持しているに過ぎません。……燃料も弾薬も尽きかけだ。あと数刻もすれば、帝国軍は完全に瓦解するでしょう」
私は、彼の言葉をすんなりと咀嚼することができなかった。
違和感。
完璧な勝利――そのはずだ。けれど、壁にかけられた古ぼけた時計が刻む「チクタク」という規則的な音が、私の焦燥を煽る。
(……勝っている、なのに、この胸騒ぎは何?)
わからない。ただ、これを無視してはいけないと、それだけは強く感じていた。
「……何か、おかしくはありませんか?」
私の言葉に、司令室の空気がわずかに震えた。
「おかしい? 何がです。奴らは敗北を認めたくないだけです。敗残兵の往きがけの駄賃のようなものでしょう」
「帝国が、そこまでこの砦を"今"落とさなければいけない理由は、どこにあるのですか?」
私は、自分の頭の中にある「脚本」を必死に読み返した。
攻めているのは帝国。守っているのは王国。
帝国は技術こそ高いが、兵力は乏しい。ならば、これ以上の損失を飲み込んでまで、夜闇の中で無策に戦い続ける合理性がない。
「……狼は、獲物が逃げないとわかれば、一度引いて牙を研ぎ直すはずです。でも、彼らは引かない。まるで、自分たちが勝つことを一分の隙もなく信じているみたいに……」
不自然なのだ。
勝っているはずの私たちの側が、まるで見えない罠に自分から首を突っ込んでいるような、そんな薄気味悪さが、深夜の静寂と共に押し寄せてくる。
「……ノクティア様は、少々考えすぎるきらいがあるようだ。軍事のことは我ら専門家に任せ、貴女は少し休まれるといい。戦場での緊張は、想像以上に心身を削りますからな」
オレオーンは、年長者らしい労わりの笑みを浮かべて部下に指示を出した。
「おい、お嬢様方を客室へ案内しろ。夜が明けるまでは、そこがこの砦で一番安全な場所だ」
「ちょっと、待って。まだ、話は――」
そう、食ってかかろうとした私の手を、誰かが引いた。
見れば、私の腕を掴み、上目遣いにこちらを見つめる――スピカの姿があった。
「……行きましょう、お嬢様。私も少し、疲れちゃいました」
「……スピカ、あなた」
「お嬢様も、疲れているように思えます。ね、今日はもう、スピカと一緒に休みましょ」
流石に、鈍い私でも理解する。
心配をかけてしまったようだ。確かに、今の私は正常な精神状態とは程遠い。
それもそうだ、つい最近まで普通の高校生だった私が、急に切った貼ったの場に連れ出されたのだから。
一度、頭を冷やす必要があるかもしれない――。
「……そうね、オレオーン隊長。ご厚意に甘えさせていただくわ」
私は、促されるままに司令室を後にする。
背中にまとわりつく嫌な予感は、一向に消えてはくれない。しかし、今はそれに、目を瞑ることにした。
廊下を歩く間も、不自然なほどの静寂が砦を包み込んでいる。
まるで、巨大な怪物が大きな口を開けて、獲物が飛び込んでくるのを静かに待っているような――そんな、死の気配から、目を背けてしまったのだった。




