17話「破れた胃袋」
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夜の闇は、帝国軍特殊工作部隊『胃袋』にとって、最高のご馳走だった。
シュ……という微かな排気音と共に、最新鋭の蒸気駆動式フックショットが垂直の岩壁に突き刺さる。
正門の方角からは、昼夜問わず味方の重装甲車が放つ砲声と、それに応戦する王国兵たちの怒号が響いてくる。だが、このレグルス砦の裏手にある断崖まで届くのは、冷たい風の音だけだ。
「……正門の連中、うまくやってるな。王国のアホどもは、今頃正面を死守するのに必死だ」
隣を登る同僚のクラウスが、通信用の管を通じて低く笑った。
「頭の固えオッサンは、これだから困るぜ。いつだって戦術ってのは、進化してるのによぉ」
「喋るな。集中しろ」
「だってよ、そうだろ? こんなに楽な話はねえ。やっぱ、喧嘩は卑怯な手を使うに限るってことよ」
「……潜入作戦を喧嘩と一緒にするな。ともかく、口ではなく手を動かせ」
へいへい、と軽口を叩く同僚に、思わず溜め息が出てしまう。
とはいえ、無駄に愚痴を重ねれば、同じ穴の狢だ。俺は背負った円筒形の背嚢――帝国の新兵器である高濃縮薬塩爆弾の重みを感じながら、指先に力を込めた。
これを砦の心臓部で爆発させるのが、俺たちの使命。それで、不落の要塞は内側から崩壊する。そうなれば、正面で泥泥の消耗戦を強いられている本隊に、勝利という名の果実を差し出すことができる。
俺たちは"王子様"だ。
"姫"様が欲しいものがあるというのなら、そいつを取りに行くのが仕事。たとえそこが、どんな茨の道であろうとも。
「しかしよ、参謀殿もエラいこと考えるよな? こんな崖から敵が来るなんて、奴さん方も考えねえだろ、普通」
クラウスの軽口が、再び響く。
「……クラウス、貴様はこの作戦が終わり次第、潜入部隊から抜けるか、そのよく回る口を縫い付けるか、選んだ方が良さそうだな」
「そんなこと言うなって、兄弟。仕事ってのは楽しくやらなきゃ駄目だぜ、それこそ、口笛の一つも――」
彼の言葉は、そこまでだった。
突如、虚空から降ってきた"何か"が、彼の頭部を音もなく叩き潰したと知ったのは、その一瞬後。
肉が砕け、骨が散る嫌な感触が、暗闇の中でも伝わってくる。クラウスの体は、断末魔すら上げることなく、重力に従って漆黒の奈落へと消えていった。
「……ッ!? クラウス!」
何が起きた?
敵襲か? それとも正門からの流れ弾か?
いや、違う。俺のすぐ上、岩肌を削って落ちていったのは――ただの、不恰好な"石"だ。
偶然の落石――否、先頭を登っているのは俺たちだ。なら、上のやつが蹴り落としてしまった石が、なんてことはない。
ならば、考えられるのは――。
「――敵襲だ! 上にバレているぞ!」
俺は叫びながら、緊急上昇レバーを引いた。蒸気圧が限界まで高まり、ワイヤーが俺の体を崖上へと急加速させる。
こうなれば隠密など関係ない。上を取り、爆弾を投げ込んで強引に道を切り拓く。
崖の上にいるのが誰だろうと、至近距離での戦闘に持ち込めば、装備が整っているこちらが圧倒的に有利だ。
岩の縁が見える。あと数メートル。
俺は腰のナイフを引き抜き、殺気を殺して一気に地面へと飛び出した。
「こんばんわぁ」
……耳を疑うほど、間の抜けた声だった。
戦場には不釣り合いな、鈴を転がすような少女の声。
着地と同時に顔を上げると、そこには不気味なほど涼しげな顔をした少女が立っていた。
「……女!? 死ねッ!」
俺がナイフを突き出した瞬間、視界から彼女が消えた。
否、あまりにも速すぎて、追いきれなかったのだ。
振り抜かれた剣閃が空気を切り裂く。
その輝きは、月明かりを照り返し――闇と混ざり合って、灰色に煌めいた。
聞いたことがある、年端もいかぬ、王国の女剣士。確かそいつは、この辺りの領主に仕えているんじゃなかったか。
「――っ、まさか、"灰刃"……っ!?」
「はい、そう呼ばれていたことも、ありましたねえ」
穏やかな口調とは裏腹に、彼女の振るう細剣が、俺の隣で這い上がってきたばかりの戦友たちの喉を、次々と正確に、そして無慈悲に裂いていく。
「が……あ、あ……」
喉を押さえ、崩れ落ちる仲間たち。
逃げ場れば落石、登れば崖の縁で斬り捨てられる。敵は黙っていても決まった所に現れるため、追撃も索敵も必要ない。
あまりにも理に適った、そしてあまりにも非道な策。
「……化け、物め……」
血の海の中で、俺は視線を上げた。
"灰刃"のさらに後ろ。
一段高い岩場に、月明かりを浴びて立ち尽くす少女の姿があった。
シルバーブロンドの長い髪を風になびかせ、彼女はただ、黙って俺たちの死を見下ろしていた。
その瞳に、憐れみも、怒りも、高揚もない。
ただ氷のような冷たさで、虫の死骸を確認するかのようにじっとこちらを観察している。
(……あれが、この"地獄"を描いた主か……)
俺が最後の一息を吐き出す瞬間、彼女の瞳がわずかに揺れたように見えたが、もはや確かめる術はない。
俺の視界は、最後に見た"冷徹な姫"の残影を刻んだまま、永遠の闇に包まれていった。
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