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16話「日の下、崖の上にて」

 レグルス砦の裏手。


 そこは、勝利の歓声に沸く正門前とは切り離された、死の沈黙が支配する断崖だった。


 吹き下ろす山風が、私のシルバーブロンドを乱暴になびかせる。 


 地図で見るのと、肉眼で確認するのとでは、やはり受ける圧力が違う。 


 容赦なく、そして躊躇(ためら)いのない自然の厳しさが、そこには確かに横たわっていた。


 数歩先は、目が眩むような垂直の闇――今はまだ昼の光に照らされているが、その高度は見る者の三半規管を狂わせ、喉元を締め上げるような絶望感を与えてくる。


「……改めて見ても、正気の沙汰ではありませんね」


 崖の縁を覗き込み、アルトが苦々しく吐き捨てた。


「ここを登るというのですか? 重装備の帝国兵が、ほぼ垂直の岩壁を。……やはり、貴女の思い過ごしではないのですか」


「昼間なら、そうでしょうね。(まと)になってくれと言っているようなものだわ」


 私は風に飛ばされないよう、岩場にしっかりと足をかけて答えた。


「でも、夜なら話は別よ。敵の目的が砦を正面から落とすことじゃなくて、混乱を引き起こし、内側から門を開けさせることだとしたら……。少数精鋭の工作員が闇に紛れて潜り込むには、ここが最高の"入り口"なのよ」


「……」


 アルトは黙り込んだ。まだ納得はしていない。だが、父を屈服させた私の言葉を無視することもできない――そんな複雑な色が、その隻眼に浮かんでいる。


 対照的に、スピカは慣れた様子で崖の下を観察し、小石を蹴り落としてその行方を目で追っていた。


「ねえ、アルト。貴方は『三匹の子豚』の話を知っているかしら?」


「……なんですか、それは」


 私は少しだけ、新鮮な気持ちになる。

 やはり、この世界では私の知る童話は共有されていないのだ。


 ならば、この世界で語られているお話はどんなものなのだろう――そんな思考の脱線を、私は小さく首を振って引き戻した。


「……遠い国に伝わる、寝物語よ。子豚の家が狼に襲われるお話で、藁や木で作った家は吹き飛ばされたけど、賢い子豚が作った煉瓦の家は壊れることなく、狼を退けたわ」


「……道理ですね。頑丈な煉瓦の壁が、獣の爪牙を阻んだのでしょう。……まさしく、このレグルス砦のように」


「残念。それは凡人の解釈よ」


 私は首を振り、崖の上に積み上げさせた岩の山を指差した。


 人の頭より一回り小さい程度のそれらは、私の力でもどうにか運搬できる重量だ。


「頑丈なだけの家はね、一度中に侵入されれば、住人を閉じ込める強固な"檻"に変貌するわ。狼が屋根に登り、煙突を見つけた時点で、子豚の負けは確定していたはずなのよ」


 アルトが眉をひそめる。私は言葉を継いだ。


「けれど、あの子豚が真に賢かったのは、家を頑丈にしたことじゃないわ。……狼が必ず通るであろう"煙突"という名のキルゾーンを用意し、そこに煮えたぎる大釜をセットしていたことよ」


 私は崖の下、今夜、狼が這い上がってくるであろうルートを冷たく見下ろした。


「今夜、この崖は"煙突"になる。私たちは、登ってきた狼を上から一方的に殴り倒すための"大釜"になるのよ。……相手がどれほど強固な爪を持っていようと、垂直の壁にしがみついている間、彼らはただの動かない標的に過ぎないわ」


「……随分と、残酷な童話ですね」


「そういうものよ、童話ってね。子供に危機を伝えるためには、恐怖と生々しさが一番だもの」


 アルトの声が、少しだけ震えていた。

 彼は無意識に、右目の眼帯に指を這わせる。


「……なら、もし。……もしその狼の中に、"姫"が混ざっていたら? 童話の法則など通用しない、理不尽な破壊を撒き散らす化け物が、この崖を登ってきたらどうするつもりです」


 その言葉と共に、彼の眼帯の隙間から、あの(おぞ)ましい火傷の痕が露わになった。


「私のこの目は、かつて、とある"姫"と交戦した際にやられました。当時、帝国軍の偵察に向かっていた我々の部隊は全滅し、生き残ったのは私だけです」


「……貴方が、"姫"に?」


 グラスベル伯が話していた、帝国の最高戦力にして、最終兵器。


 それと、彼は既に遭遇していた。


「ええ、正しく埒外(らちがい)の戦力と言わざるを得ません。彼女らの使う魔法は、どんな策すらも凌駕するほどに、理不尽だ」


 彼の言葉に、私の思考が一瞬だけ凪いだ。


 彼は知っているのだ。どんなに陣形を整えようと、圧倒的な個の暴力の前では、全てが灰に帰す瞬間があることを。


 

(――私も、本来ならその"理不尽"の一端だったはずなのに)



 そんな、今の自分に欠けたものへの劣等感が顔を出しそうになるのを、私は必死に堪えた。


「……同じことよ」


 私は彼から視線を外さず、淡々と、自分に言い聞かせるように告げた。


「どれほど強力な魔法を使おうと、重力は等しく降りかかる。空を飛べない限り、崖を登る者は、上から落とされる"石"には勝てないわ」


 私はアルトの眼帯を指差し、あえて残酷なまでに言い切った。


「勝利に酔って目を曇らせている、あなたのお父様(オレオーン)と同じ(てつ)は踏まない。……予想外の強襲に備える唯一の方法は、相手に予想外をさせる隙を与えず、最初の一撃で完封することよ」


 昼の光が、刻一刻と伸び、影を濃くしていく。


 やがて訪れる、新月の夜。


 ラプンツェルの塔に現れるのが、王子様か、あるいは人食いの狼か。


 私たちは、獲物が罠にかかるのを待つ蜘蛛(くも)のように、静かに牙を研ぎ始めた。


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