15話「老いた獅子の唸り声」
「……何か、飲みますかな? 王都から取り寄せた茶葉の用意がございますが」
司令室を包む、まるで深海のような圧力の中、オレオーン隊長は努めて冷静に、何事もないかのように切り出した。
「あら、気が利きますのね。優秀な司令官様は、国境沿いの砦でも、上等な茶葉まで備えてらっしゃるのね」
「……全て、お父上のお陰です。あの人の賢政があってこそ、このグラスベル領は、端から端まで、余すところなく豊かでいられる」
「なら、そうね。一杯いただこうかしら、お誘いを断るような"不躾"な真似はできませんもの」
そうして、ティーカップが運ばれてくるまでの間、私はオレオーンのことを観察する。
正面、卓を挟んで座る彼の呼吸は、短く、重い。その視線は私の喉元を狙う刃のようだが、切っ先は、私が握る秘密の輝きの前に、わずかに震えているように見えた。
勝算は、ある。カップがテーブルに置かれると同時に、私は口を開いた。
「……本題に入りましょう。オレオーン隊長」
私は盤上に広げられた地図の上に、細い指を置く。
「先ほどの勝利、お見事でしたわ。けれど、敵は"炉"を持つ帝国。彼らが自慢の兵器をあんなに易々と使い捨て、燃料切れなどという初歩的なミスで退却する……。あまりに出来すぎているとは思いませんか?」
「……敵の慢心です。物量と技術に頼る者は、往々にして基礎を疎かにするものよ」
「いいえ、あれは"撒き餌"だと、私は愚考いたしますわ」
「……"撒き餌"、ですか」
勝利にケチをつけられたからか、オレオーンの顔が不快そうに歪む。
「ええ、恐らく、相手の狙いは正面に戦力を引きつけておいての、別働隊による奇襲だと考えられます」
「ふん、馬鹿げていますな。連中は、一度たりともそんな狡猾な策を切ってきたことはない。下品な兵器に任せた、力押ししかできん奴らです」
「あなたの経験を、否定はしませんわ。ですが、万が一脇腹を突き刺されたら、薄い鎧一枚では、容易く内腑に届くでしょうね」
「……レグルスの守りは、鉄壁です。一体、どこにそんな急所があると言うのですかな?」
そう、それが本題。
この、難攻不落の絶対防御に、唯一存在している急所。
私は、レグルス砦の裏手――等高線が密に描かれた断崖絶壁を叩いた。
「ここよ。正面に全神経を向けさせている間に、帝国の本命は、ここから登ってくると考えておりますわ」
「……馬鹿げている。そこは垂直の壁だ。鳥でもなければ登れん。わざわざそんな無駄な労力を払うほど、帝国は暇ではない」
「誰も来ないという思い込みこそが、最も危険な隙を生む……童話『ラプンツェル』のようにね。王子様は、入り口のない塔の壁を登って現れた。帝国にも、この崖を登る"髪"を用意する手段があるとしたら?」
「『ラプンツェル』……? 髪……? 若い娘の言うことはわかりませんな。それに、また、童話ですか」
オレオーンは苛立ちを露わにし、椅子を鳴らして立ち上がった。
「ノクティア様。貴女が何を握っていようと、軍の配置は変えられません。正面の守りを崩せば、それこそ帝国の思うツボだ。……どうか、お引き取りを」
拒絶。冷たく、堅牢な壁。
けれど、私にはまだ、その壁を崩すための最後の一撃が残っている。
私はゆっくりと、彼の視線から外れないようにして、隣で困惑するアルトを見た。
「アルト小隊長。貴方は、お父様のことをどう思っているのかしら?」
「……え? それは……厳格で、非の打ち所のない、誇り高い騎士だと」
「ええ、その通りね。けれど、もし。……もし、その誇り高い獅子が、雪の降る夜に"翡翠の指輪"を贈った相手が、騎士の誓いとは程遠い場所の住人だったとしたら、どうかしら?」
「――っ、貴様……!」
オレオーンの顔が、怒りと恐怖で真っ赤に染まった。
その殺気は凄まじかった。スピカが即座に私の前に出ようとし、アルトは何が起きたのか理解できずに硬直している。
私は、スピカを制し、微笑みを絶やさずに続けた。
「この話に、続きが必要かしら? 私は別に、英雄の不徳を暴きたいわけじゃないの。ただ……"翡翠の輝き"が、アルト小隊長や、お父様の耳にまで届いてしまうのは、悲しいことだと思わない?」
沈黙。
司令室の時計が時を刻む音だけが、不気味に響く。
オレオーンの拳が、地図を破らんばかりに握りしめられていた。
彼はアルトを、そして私を、交互に見つめる。
やがて、彼は魂を吐き出すような溜息とともに、力なく椅子に座り直した。
「……アルト」
「は、はっ!」
「……貴様の第三小隊なら、砦の防衛線には関わらん。裏の断崖の警備に回せ、私の直命だ」
「え!? ですが、それは……」
「……構わん。ノクティア様には随分と自信がお有りのようだ。気が済むまで付き合って差し上げても、バチは当たらんだろう」
言葉通りの意味ではないことくらいは、彼にもわかっていただろう。
だが、それを問い質すことはできない。そんな、有無を言わさぬ圧力が、今の彼にはあった。
「何をしている。……行け、今すぐにだ」
アルトは驚愕に目を見開いたが、父の、いや上官の絶対的な命令に背くことはできなかった。
「……了解いたしました」
彼は私を一度、複雑な色を孕んだ瞳で見つめ、部屋を飛び出していった。
司令室に残されたのは、私とスピカ、そして老いた獅子――オレオーンだけ。
彼は、絞り出すような声で問うてくる。
「……ノクティア様。そのことを、どこで」
「さあ? 風の噂、かしら」
「風すら知らぬ話のはずです。どこに耳をつければ、こんな――」
「なら、幽霊にでも聞いた、ということにしておきましょう」
私はティーカップを空にして、ゆっくりと立ち上がった。これ以上、情報の出処について語るつもりもない。
「……ご協力、感謝いたしますわ、オレオーン隊長。……お互い、自分の戦いに全力を尽くしましょう」
私は、くるりと背を向けた。
去り際、彼が何かを呟いたような気がしたが――それも気にせず、私は司令室を後にする。
「……さ、私たちも行きましょう、スピカ。私たちの"ラプンツェル"を、迎えに行かなきゃ」




