14話「翡翠が導く司令室」
◆◇◆
完璧だ。
レグルス砦の最上階、指揮官のみに許されたバルコニーから戦場を見下ろし、タラゼド・オレオーンは深く、満足げに鼻を鳴らした。
視界の先では、帝国の誇る"亀"たちが無残な鉄屑と化して転がっている。
奴らの技術力は確かに驚異だ。だが、戦とは技術だけで決まるものではない。地形を読み、敵の焦りを誘い、乾いた雑巾を絞るように資源を枯渇させる。それがこの地を数十年間守り抜いてきた、オレオーンの"絶対不敗"の戦術だった。
そして、それは今回も、何ら変わらない。
(あと二、三度も波状攻撃を凌げば、帝国軍は完全に息切れする。……勝機は見えたな)
オレオーンが次の指示を出そうと口を開きかけた、その時だった。
「報告! 報告いたします!」
一人の伝令が、息を切らせてバルコニーに飛び込んできた。
それを見たオレオーンの額に、渓谷のような深いシワが寄る。
「なんだ、騒がしい。今は帝国軍が退いた直後の、貴重な再編の時間だぞ。下らん報告なら叩き出す」
「は、はっ! ですが、先ほど裏門に到着されたノクティア様より、隊長へ伝言が……」
「ノクティア……? あの箱入り娘か。死地に飛び込んでくるとは物好きだが、今は相手をしている暇はない。どこか空いている部屋にでも閉じ込めておけ」
オレオーンは苛立たしげに手を振った。だが、伝令の次の一言が、彼の思考を氷結させた。
「それが……その、『冬の空、翡翠の指輪が綺麗に輝いております』と……」
「……なんだと?」
オレオーンの顔から、勝利の余韻が潮が引くように消え去った。
翡翠の指輪。
それは、彼が一生をかけて墓まで持っていくはずだった、ある秘密を指していた。
なぜ。なぜ、一度も戦場に出たことのない、記憶を失ったはずの小娘がその名を知っている?
背筋を、冷たい汗が伝う。
獅子と謳われた男の肩が、微かに、しかし確かに震えた。
「……通せ。今すぐに、司令室へ案内しろ」
◆◇◆
砦の内部は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
だが、その静寂は平和なものではない。行き交う兵士たちの瞳には、一戦を終えた後の興奮と、次の襲撃への極限の緊張が張り付いている。
「……父上は、このレグルス砦そのものです」
司令室へと続く長い廊下を歩きながら、アルトがポツリと漏らした。
「人呼んで"戦獅子のオレオーン"。頑強で、揺るぎなく。過去三十年、父上の指揮下でこの砦が落ちたことは一度もありません」
「それは……また、随分な功績ね。貴族連中が盲信するのも、頷けるわ」
「……兵士たちもですよ。父上の判断を"神の声"のように信じ切っている。……先の勝利で、その傾向はさらに強まったはずです」
アルトの横顔には、偉大すぎる父への敬意と、それ以上に深い"諦念"が混ざっていた。
「そんな父上が、あんな不可解な伝言一つで、こうもあっさり面会を許すとは……。一体、何を吹き込んだんですか?」
「ええ、少しばかりの"昔話"をしただけよ」
「お得意の、"童話"の話で?」
「いえ、これはまた違うわね。とはいえ、教訓めいたものを含む点では、似ていると言えるかもしれないけれど」
私は歩調を緩めず、司令室の大きな扉を見上げた。
いよいよ、獅子の檻の前だ。
「さあ、着きましたよ。……私はここで待っています」
アルトが扉の脇へ退こうとした。だが、私はその腕を強く掴んで引き止めた。
「いいえ。貴方も一緒に来なさい、アルト」
「は? 何を……。これは、父上と貴女の話でしょう?」
「これは"軍議"よ。なら、貴方が同席しなきゃ、私一人じゃ話をまとめるのは、難しいわ」
私は彼を真っ直ぐに見つめた。
(……それにね、貴方がそばにいた方が、何かと都合がいいもの)
そんな意地の悪い本音は、おくびにも出さない。
「共犯者なんでしょう? ……最後まで付き合ってもらうわよ」
私はアルトの返事を待たず、重厚な扉を勢いよく押し開けた。
部屋の奥。
巨大な机に地図を広げたオレオーン隊長が、燃えるような眼光でこちらを睨みつけていた。
その佇まいは、まさに獲物を待ち構える獅子そのものだ。
「……ノクティア様。随分と、不躾な育ち方をされたようですな」
地を這うような低い声。だが、その瞳の奥には、隠しきれない焦燥と"怯え"が混じっているのを、私は見逃さなかった。
「あら、挨拶もないのね。まあ、私に言わせれば、少し"お喋り"なだけだと思うけれど」
「口は災いの元ですぞ。沈黙は金、とも」
「なら、災いが振りかかるかは、ここからのあなた次第ね。だって私、金には興味無いもの」
私は不敵に微笑み、一歩、また一歩と、彼の間合いへと踏み込んだ。
そして、彼の目の前に腰を下ろす。令嬢として、品を損なわぬよう。それでいて、一軍の将にも負けぬよう、堂々と。
「さあ、仕事の後で疲れているでしょう。ゆっくりと――お喋りしましょう。タラゼド・オレオーン」
オレオーンの顔が歪む。それは、彼が私のことを明確に、敵と認めた証拠だった。
つまりそれは、彼が本気で私を相手取ると、そう決めたということでもある。何もかもが、順調だった。
アルトとスピカを両脇に控え、私は口を開く。この、レグルス砦の存亡を賭けた舌戦の、口火を切るために。




