158話「敵影、伝説の残り香」
◆◇◆
かつて、世界を焼き尽くさんとした大戦の最中、帝国の軍旗の下で、天災に例えられる一人の男がいた。
名を、グリス・トール=レオンテス。
彼は帝国の下級兵士に過ぎなかったが、旧時代の遺物である雷撃の小手"ミョルニル"をその拳に宿した瞬間から、戦場の理を塗り替える存在へと変貌した。
"アルシャイン"が帯びる力を、悪を挫く裁きの光であるとするのなら、彼の"ミョルニル"はまさに、空をも砕く審判そのものであったと言えるだろう。
その武勇は凄まじく、王国が誇る歴代最強の騎士、"アルシャイン"を帯びた、全盛期の"護国の獅子"オレオーンを二度にわたって敗走せしめたという記録が残っている。
ヴェルギウス・クラインが世に出る前の時代、"人類最強"の名を冠するに相応しい者を問うたなら、兵士たちは震える指で北の空を指し、彼の名を口にしただろう。
だが、その怪物も最後は、"姫"のような不条理に敗れたわけではなかった。
大戦末期、崩壊へ向かう帝国の兵站は破綻し、グリスは応援も食糧もないまま前線で孤立した。数カ国の連合軍による包囲網の中で、彼は数千の兵を道連れに、雷光と共に果てたはずだった。
歴史の砂に埋もれたはずの"雷帝"。
その亡霊が今、再び王国の心臓部へと牙を剥こうとしていた。
◆◇◆
アルフェッカの口から語られた名は、塔の空気を物理的に重く変えたようだった。
震える声でその名を呼んだ彼女の瞳には、かつてないほど濃い"畏怖"が宿っている。
そんな彼女の姿は、一度たりとも見たことがない。エリダヌスとの摩擦に苦しんでいた時も、"雪の女王"が宮殿を凍てつかせた時も、彼女は常に冷静だった。
「……アルフェッカ、その男がそれほどまでに恐ろしいの?」
私の問いに、彼女は艶を失った銀色の髪をザワリと揺らし、力なく首を振った。
「恐ろしいなんて言葉じゃ足りないわ、ノクティア。もし本当にグリスだとしたら、その戦闘力は"姫"をも凌駕しかねない。……いいえ、おそらく確実に仕留めに来るわ。あなたも公国で見たでしょう? 彼は、括りとしては、あのヴェルギウスと同じ分類の化け物よ」
「――"人類到達点"」
その単語を聞いた瞬間、私の背筋に嫌な汗が流れた。
魔法という理外の力を持たず、ただ純然たる人の身でありながら、その技量と意志のみで"姫"を圧倒し、跪かせてみせた騎士の中の騎士。
理不尽を叩き伏せる、最強の"人類"。
そんな怪物が、死の淵から蘇り、この王都に足を踏み入れているというのか。
「……どうやら、今回は連中も本気のようだな。ただの政変を目論む小悪党の集まりだと思っていたが、とんだ隠し玉を持っていたものだ」
セファス王が、苦々しく吐き捨てるように呟いた。
彼の拳は、自身の無力さを呪うかのように硬く握りしめられている。王国の盾たる騎士団でさえ、全盛期のオレオーンを凌ぐ怪物相手では、文字通り、紙細工のように散らされる未来しか見えない。
「"銀髪祭"の式典は、明後日だ。そこでアルフェッカは"守り神"として、遥か高みのバルコニーから民の前に姿を現す。形式上のことではあるが、それは彼女が唯一、外界の目に触れる瞬間でもある……。狙われるとするなら、そこしかない」
王は私に視線を向けた。その瞳には、一国の王としての冷徹な判断と、娘のような年齢の私に過酷な運命を強いる苦渋が混在していた。
「ノクティア。……たとえ相手が伝説の怪物であったとしても、今の王国で彼に対抗し得るのは――」
「……わかっています、"姫"たる、私しかいない」
セファス王の言葉が、私の胸に重くのしかかる。
以前の私なら、もっと不遜に"任せておいて"と言えたかもしれない。けれど、公国でアダーラという、格上の相手を前にして、私は一度、完膚なきまでに敗北したのだ。
魔法という力を持ち、物語を書き換える立場にありながら、私は、公国の人々を守りきれなかった。
自分の"個"としての力の不足。ノクティア・グラスベルという少女が持つ脆弱さ。
それを突きつけられた痛みは、今も心の奥底で疼いている。
(私に……あの"人類到達点"と同じ化け物を、止められるの?)
脳裏に浮かぶのは、シャウルが見たという雷光のガントレット。そして、私を憎悪し、守護のために剣を振るうザラの背中。
そして、グラスベル領にいる、父上やポーラ、騎士たちの顔。
もし私がまた負けてしまえば、今度はこの王国が、アルフェッカが、そして私の傍にいる者たちが、あの雷撃に焼き尽くされることになるかもしれない。
「……わかりました。やります」
不安で震えそうになる指先を、ドレスの裾を強く握ることで誤魔化す。
今の私には、ギエナのような狡猾な知略も、アルトのような迷いのない忠誠もない。
そして何より――アダーラのような、何もかもを根こそぎにできるような強さすらも。
けれど、ここで頷かなければ、物語は最悪の結末へと向かって加速していくだけだ。
私は、己の力量に一抹の不安を抱きつつも、静かに頷くのだった。




