152話「"便利屋"」
威勢のいい掛け声と、煮込み料理の脂っこい匂いが立ち込める店内。
私は、扉を開けた勢いのまま数秒間立ち尽くし、そしてゆっくりと肩を落とした。
視界のどこを探しても、山盛りの肉皿を前に目を輝かせているはずの、あの食いしん坊は見当たらない。
「……なんだ。アテが外れたようですね、お嬢様」
背後で、ザラが吐き捨てるように呟いた。
彼女は馬車の中から続く仏頂面を崩さないまま、私の失策を愉しむかのような皮肉を重ねる。
「……そうね。自信があったんだけど、おかしいわね。あの子の食い意地なら、真っ先にここを選ぶと思ったのだけれど」
「過信は禁物だということですよ。さあ、いないのならさっさと出ましょう。祭りの夜は物騒です、いつまでもこんな油臭い所に留まるべきではありません」
ザラに促され、私は気まずい思いで踵を返そうとした。
だが、店内の喧騒を切り裂くような、ひどく切羽詰まった、それでいてどこか間の抜けた声が私の足を止めた。
「ええ〜、大将、そこをなんとか勘弁してよ〜っ! ツケ、今度こそ、今度こそちゃーんと払うからさぁ! ね!? この通り!」
「馬鹿言え! お前さん、いつかもそう言って、受け取ったばかりの稼ぎを全部カード遊びに注ぎ込んじまったじゃねえか! うちの店は慈善事業じゃねえんだよ!」
奥のテーブル席で、一人の女が店主に必死に縋り付いていた。
女は、かなりの長身だった。座っていても分かる、全身を覆うしなやかで引き締まった筋肉。
後ろで無造作に縛った長い黒髪が、彼女の野性味を強調している。一見すれば、凄腕の傭兵か何かのようにも見えるのだが……。
「カードは……あれは不可抗力っていうかさあ、運がちょっとだけ里帰りしてただけで……次は絶対に勝てる流れだったんだってば!」
「その"次は勝てる"を何度聞いたと思ってる! 払えねえなら、もう一歩も中に入れないからな!」
……どうやら、ただの深刻なギャンブル狂のようだった。
祭りの時期には、羽目を外して路頭に迷う手合いも増えるものだ。ザラが「見苦しい」とでも言いたげに鼻を鳴らし、私も関わるべきではないとその場を去ろうとした、その時。
ふと、その女と目が合った。
鋭い眼光を放ちそうな切れ長の瞳。それが、今はこれ以上ないほど情けなく潤み、助けを求める捨てられた子犬のように私を見つめていた。
一度、目を逸らす。しかし、感じた無言の圧を無視することは、できそうにもなかった。
『そこのあんた、頼むから助けてくれ』とでも言いたげな、その瞳。気にせず立ち去ることも、できたはずなのに。
(……ああ、もう! なんでこっち見るのよ)
その視線から逃げるように扉へ手をかけたが、私の良心が、あるいは、私の何処かに今も眠る、お節介焼きの性分が、それを許さなかった。
ここで見捨てたら、私が何だか酷い悪者になったような、得も言われぬ罪悪感に襲われそうだったのだ。
「……大将、その人の分、私が払うわ」
「はぁ!?」
背後でザラが、今日一番の大きな声を上げた。
支払いを済ませ、釈然としない顔の店主を下がらせた後。
私は、女の座るテーブルへと戻った。女は信じられないものを見るような目で私を見つめていたが、やがて拝むように両手を合わせた。
「いやあ〜! 神様仏様だよぉ! ありがとう、本当に助かったぁ! もうここまで来たら、体でも売るしかないかと思ってたんだぁ!」
「……もっと自分を大切にしなさいよ。まあ、困っている時はお互い様って言うしね。せっかくの祭りなんだから、あまり惨めな思いはしたくないでしょう?」
私の呆れ顔を気にする風もなく、女は豪快に笑いながら、目の前に並んだ(もちろん私が支払った)料理に食らいついた。
「本ッ当、さんきゅーね! 仕事のお金はそれなりに入ったんだけどさ、みーんなカードでスっちゃって。あはは、笑えるよね!」
(――助けない方が良かったかしら?)
そんな後悔が、頭をよぎる。
ザラは文字通り開いた口が塞がらないといった様子で、壁際で天を仰いでいた。彼女の視線が「こんな女に付き合うくらいなら、一刻も早く帰らせろ」と語っているようで痛い。
ひとしきり食べ終えた女は、満足げに腹をさすると、私に向かって大きな右手を差し出してきた。
「あたしはカノン。仕事は……まあ、ちょっとした便利屋、みたいな? 荒事から猫探しまで、なんでもござれってね」
「……ノクティアよ。便利屋なら、次にお金が入ったら、ちゃんとお金返してね。利子は取らないから」
「あはは、あんたはしっかりしてるねぇ。了解了解、出世払いで期待しててよ!」
そう言って笑うカノンの手を、私は渋々取ることにした。
――瞬間。
(……この人、結構できるわね)
その掌には武人の硬いタコがあり、彼女がただのだらしない博徒ではないことを物語っていた。
その大きな手から伝わる握力も、十分に強い。どうやら、"便利屋"稼業というのも、楽なものではないらしい。
「お嬢様、そんな素性の知れない者と……」
ザラが小声で毒を吐くが、私は不思議と、このカノンという女性に、どこか憎めない親しみやすさを感じていた。
あるいは、人懐っこく笑う彼女に――誰かを重ねたからかもしれないが。




