147話「揺るがない強さ」
父の背中を追い、迷路のような邸宅を歩く。
自分の家として、ようやく馴染み始めたこの場所が、今夜はひどく異質な空間に感じられた。
「まるで、嵐のようなひと月だっただろう、ノクティア。私も、お前がエリダヌスとの講和を勝ち取ったと聞いた時には、椅子から転げ落ちそうになったぞ。……我が娘ながら、いつの間にこれほど食えない軍略家になったのかとな」
父は振り返らず、けれど愉快げに肩を揺らした。
その声音には、世間が恐れる"グラスベルの姫"への畏怖ではなく、ただ娘の突拍子もない成長を喜ぶ、親としての温かな響きがあった。
「……いえ、そんな。私も、必死だっただけですから。そうでもしなければ、全員が飲み込まれてしまう状況でした」
「ああ、分かっている。お前はよく戦った。……だが、戦場には持っていけぬものもある」
父が足を止めたのは、邸宅の最奥、今では使用人さえも滅多に近寄らない重厚な扉の前だった。
彼が鍵を差し込み、静かに扉を開くと、そこには月明かりだけを頼りに眠る、ひどく静謐な空間が広がっていた。
微かに残る、乾燥した花の香りと、古い書物の匂い。
調度品の一つ一つに、持ち主の確かな品性と、それを守り抜こうとする意志が宿っている。そこは、私がこの身体を借りるずっと前に亡くなった――。
「――もしかして、ここは」
「ああ、そうだ。お前――ノクティアの母、レティシア・マキア=グラスベル……あいつは、まだ、あの子が小さかった頃に流行り病で命を落としている」
そういえば、グラスベルの夫人については、一度もその存在を認識したことがなかった。
ポーラも、スピカやシャウルたち侍女も、その話は私にしたことがない。その理由は、これだったのか。
「ノクティアは、あいつの面影をよく継いでいる。聡明で、素直で……そして、私よりも先に逝ってしまった」
そう口にするグラスベル伯の顔には、どうしようもない悲哀が浮かんでいた。
彼を慰める言葉を、私は持たない。
だって、私もこの世界に来る前に――。
「そうだ。……ふと思ったのだが、ノクティア……その内に宿る者よ。きみの親は、どうしているのだ?」
唐突な問いに、私は息を呑んだ。
"こはる"としての私の記憶。それは、あの火災の夜の、喉を焼く熱さと共に焼き付いている。
「……わかりません。おそらく、もう」
脳裏に浮かぶのは、燃え盛る家屋の前で、膝を突き、ただ泣き腫らしていた母の姿。
あれが、私が見た最期の母の顔だった。
助けに飛び込むこともできず、ただ瓦礫の下で灰になっていく私と妹を、彼女はどんな思いで見つめていたのだろう。
私の答えに、グラスベル伯はどこか思うところがあるように、そっと視線を伏せた。けれど、彼は悲劇を嘆くのではなく、ただ淡々と語り始めた。
「……ノクティアの母が亡くなったのは、私のせいなのだ」
「父上の……?」
「ああ。当時、猛威を振るっていた病に対し、国中の学者が"有効だ"と唱えていた薬があった。私はそれを信じ、疑うことなく彼女に服用させた。……だが、後に判明したのは、その薬こそが毒となり、彼女の命を縮めていたという事実だった」
父の横顔は、深い後悔に刻まれていた。
けれど、その声は震えていない。長い年月をかけて、自らの罪を咀嚼し、血肉に変えてきた男の強固な響きがあった。
「ノクティアは、わんわん泣いていたよ。入るなと言ったのに、この部屋に入り浸り、日がな一日、その椅子で涙を流していた。……正義とは何か、正解とは何か。私はあの日、すべてを見失ったのだ」
父は月光に照らされた椅子に触れ、懐かしさに目を細めた。
「いいか、ノクティア――あるいは、その内に宿る者よ。よく聞きなさい」
彼はゆっくりと私に向き直った。その眼差しは、迷える子羊を導く羊飼いのように厳格で、慈悲深い。
「この世に、絶対の規範など存在しない。揺るがぬ物差しも、未来永劫変わらぬ正解も、どこにもないのだ。学者が正しいと言った薬が人を殺し、王が正しいと言った法が国を滅ぼす。……世界は常に、そうした変動と誤謬の中に漂っている」
彼の言葉が、私の乾いた心に染み込んでいく。
スピカを守れなかったこと。ザラを追い詰めたこと。
私はそれらを、自分の不手際や間違いだとして懊悩してきた。けれど、この世界そのものが、そもそも"正解"を欠いたまま回っているのだとしたら。
「……なら、お父様。私は、どうすればいいのですか。何を選んでも間違いかもしれない世界で、私はどうやって、この重い物語を書き続ければいいのですか?」
震える私の問いに、父は私の両肩にそっと手を置いた。
「見つけるのだ。お前の中で、何があっても信じられるものを。……周囲の物差しが歪み、世界の色が塗り変わる激動の中にあっても、決して変わらぬ"たった一つの指針"をな」
「あたし、自身の……?」
「そうだ。誰かに与えられた正義ではない。お前という魂が、その火の中でも、この異世界でも、決して手放さなかった……あるいは、手放したくないと願う"何か"だ。それを見つけない限り、お前はいつか、その大いなる力に食い殺されるだろう」
父に促され、私は母の部屋を後にした。
自室に戻る廊下を歩きながら、私は何度も、彼の言葉を反芻していた。
(何があっても信じられるもの……。あたしにとっての、たった一つの指針)
かつての"こはる"には、そんな大層なものはなかった。
ただ毎日を生き、少しでも良い大学に入り、少しでもマシな未来を手に入れること。それはシステムに最適化された"正解"であっても、私の内側から湧き出した指針ではなかった。
スピカが命を懸けて守ってくれたのは、私が令嬢だったからだろうか。
ミラクが手を取ってくれたのは、私が正しいからだろうか。
私を突き動かしているのは、義務感なのか。
それとも、ただの自己満足なのか。
雨はいつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から、鋭い冷たさを湛えた星々が顔を出している。
けれど、そのどれもが私の進むべき方向を指し示してはくれない。
(わからない……。あたしの中に、そんな確かなものなんて……)
けれど、父の言葉は、冷え切っていた私の心に小さな"熱"を残していた。
それは答えではなく、問いという名の火だ。
帝国との戦いは、間違いなく目の前まで迫っている。
それまでに、私は私の強さを見つけなければならない。
どんなことがあっても揺るがない、そんな、"個"としての強さを――。




