146話「泥濘にとられて」
夜の帳が降りたグラスベル邸は、静まり返っていた。
執務室の机に置かれたランプの灯りが、壁にかけられた領地図をぼんやりと照らし出している。私は一人、誰にも見せることのできない疲労を背負い、深く椅子に身を沈めていた。
窓の外では、雨が音もなく降り続いている。
思い返せば、この世界で目覚めてから今日この瞬間まで、私は一度として足を止めたことがなかった。
全ての始まりは、あの溶け落ちたレグルス砦だった。そこから王都での反"姫"派との衝突、エリダヌスを揺るがした激闘、そして、つい先日のガーランドでの凄惨な敗走。
(……なんだか、少し、疲れたな)
口から漏れた独白は、重い鉛のように足元へ落ちた。
全ての"姫"を打ち倒し、不条理に歪められたこの世界をあるべき形へと書き換える。そうしていつか、この身体を本来の持ち主であるノクティアに返す。
そう自分に言い聞かせ、必死に走り続けてきた。けれど、あまりに多くのことが起こりすぎたのだ。
戦いの中で得たもの。アルトやギエナとの信頼、シャウルの明るさ。
そして、戦いの中で失ったもの。スピカの命、ザラの心、そして大公ディバルドの尊厳。
世界の色は、思っていたよりもずっと複雑で、酷く濁っていた。
ミラクやアルフェッカのように、"姫"としての理不尽を背負いながらも気高くあろうとする善良な存在もいれば、"マッチ売りの少女"やアダーラのように、絶望そのものを体現し、相容れることのできない悲劇もいる。
善と悪。救済と断罪。
その境界線を見失いそうになるたび、私の魂は摩耗し、薄く透けていくような感覚に陥るのだ。
ふと、この身体に宿る前の"私"の記憶が、霧の向こうから浮かび上がってきた。
(――元の世界にいたら、今ごろは、受験が始まっていたのかな)
あの日の火災さえなければ。
私は今ごろ、冬の寒さに身を縮めながら共通テストの会場に向かっていただろう。二次試験に備えて参考書を捲り、夜はバイトに明け暮れて、将来への漠然とした不安と期待の間にいたはずだ。
そこにあるのは、剣戟の音も、氷点下の絶望もない、平凡で、けれど尊い日常。
今さら考えても仕方のないことだと分かっている。
それでも、浮かんできてしまうのだ。もし、私がもっと賢ければ。もし、私にすべてを跳ね除けるような圧倒的な力があれば。
スピカが死ぬことも、オレオーンが傷つくことも、ザラにあんな悲鳴を上げさせることもなかったのではないか。
(……あたしは、本当に正しかったのかな)
対帝国に備えるための時間は、砂時計の砂のように刻一刻と零れ落ちていく。
だというのに、私の闘志は無惨に萎んでいくばかりだった。
仲間たちの傷跡を見るのが怖い。好転しない状況を直視するのが苦しい。
物語を書き換えるはずの筆先は震え、インクは枯れ果てようとしていた。
もう、何もかも諦めてしまいたい。
正義だとか、責任だとか、そんな重い鎖をすべて解いて、何も考えずに深い眠りに落ちたい。
――そんな弱音に塗り潰され、私がゆっくりと目を閉じようとした、その時だった。
「――悩んでいるな、ノクティア」
弾かれたように目を開き、振り返る。
そこに立っていたのは、いつの間に部屋に入ったのか、グラスベル伯――私の、いやノクティアの父であった。
「お父様……。夜分に、失礼いたしました。少し、考え事を……」
私は慌てて背筋を伸ばし、領主としての顔を取り繕おうとした。けれど、父の穏やかで、すべてを見透かしたような眼差しに射抜かれ、言葉が喉の奥で消えた。
彼は無言で私の側に歩み寄り、私の手元の書類をそっと避けた。その手は、かつて戦場を駆けた騎士の力強さと、娘を慈しむ親の優しさを併せ持っていた。
「背負いすぎだ、お前は。……お前がこの身体で目覚めてから、どれほどの重荷を独りで抱えてきたか、私は見てきたつもりだ」
父の言葉に、鼻の奥がツンと痛む。
私は"星河こはる"であって、彼の本当の娘ではない。けれど、この人はそんな真実を超えた場所で、今の私を真っ直ぐに見つめてくれている。
「……私は、足りないことばかりなんです。救いたかった人たちを、救えなかった」
「完璧な英雄など、物語の中にしかいない。……ノクティア、お前は少し、息を抜く必要がありそうだ」
父はそう言うと、羽織っていた厚手のマントを私の肩にかけた。
「ついてきなさい。……お前に、見せたい場所がある。かつて、お前の魂が……その、まだ幼かった頃の、あるいは"あの日"以前のお前が、この世で最も憩えたであろう場所だ」
「……私が、憩えたであろう場所?」
「ああ。そこは、理屈も戦略も必要ない場所だ。お前にとっての"本当の休息"が、そこにあるはずだ」
父の背中を追って、私は夜の回廊へと踏み出した。
雨音は次第に遠のき、邸宅の奥深く、今まで私が一度も足を踏み入れたことのない一角へと導かれていく。
萎んでいたはずの心が、微かな期待と、そして不思議な安らぎに震えていた。
そこがどこなのか、今の私にはまだ分からない。
けれど、父の大きな背中を見つめている間だけは、私は一人の少女に戻り、明日への不安を夜の闇へと預けることができたのだった。




