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145話「叱責、後悔、壊れた刃」

 演習場を離れ、私はザラに促されるまま、駐屯所の中庭に面した小さなテラスへと移動した。


 吹き抜ける風は春を遠くに感じさせる冷たさを孕んでおり、石造りのテーブルを挟んで向かい合った彼女の瞳は、その風よりもなお鋭く私の視線を拒絶していた。


「何か、温かいものでも飲みますか。お嬢様の口に合うような上質な茶葉は、この吹き溜まりにはありませんが」


 ザラは事務的な手つきで、簡素な陶器のカップに湯を注いだ。


 もてなそうという意志など、微塵も感じられない。ただ、"訪ねてきた辺境伯の令嬢の相手"という形式上の義務を淡々とこなしているだけだ。


 その間も、彼女から放たれる殺気は、先ほど剣を収めた後も消えることなく、薄い膜のように私の肌を刺し続けていた。


「……いいえ、構わないわ。ありがとう、ザラ」


 私は差し出されたカップの熱を指先に感じながら、意を決して口を開いた。ここで言葉を濁せば、二度と彼女の心に踏み込むことはできない。


「単刀直入に言うわ。ザラ・シューエ、私はあなたを勧誘しに来たの。私の専属騎士として……来たるべき帝国との決戦、ひいては"姫"との戦いに、力を貸してほしい」


 ザラがカップを置く音が、静かなテラスに硬く響いた。


 彼女はゆっくりと顔を上げ、私を値踏みするように見つめる。その瞳の奥で、どろりとした負の感情が渦巻くのを私は見た。


「……勧誘、ですか。それはまた、滑稽な冗談を。あたしに……いえ、私に、()()()()()()()()()()()()と仰るのですか?」


 皮肉めいた、けれど刃物のように研ぎ澄まされた問いかけ。


 私は喉の奥が乾くのを感じながら、それでも視線を逸らさなかった。


「スピカの忠信は、今でも私の胸にあるわ。彼女が命を懸けて私を護ってくれたことを、一日たりとも忘れたことはない。けれど……」


「けれど、肉親を失ったという事実は、そんな感傷では埋まらない。そう言いたいのでしょう、お嬢様」


 ザラが言葉を遮る。その声は、もはや静かな騎士のそれではなく、傷口を掻き毟るような剥き出しの怨嗟を孕み始めていた。


「あたしたちは、"姫"がもたらしたあの忌々しい戦災で、親も家も全部失ったんです。泥水を啜って、凍えながら死にそうになっていたあたしたちを、グラスベル伯様が拾ってくださった。……あの日から、あたしにとっての世界は、スピカだけだった。あの子が生きていてくれるなら、あたしはどうなってもいいと思っていたのです」


 ザラは椅子から立ち上がり、私の方へ一歩、じりりと詰め寄った。


 小柄な彼女の身体から溢れ出す圧迫感に、私は思わず息を呑む。


「拾ってもらった恩を返すために、あの子は侍女になって、あたしは剣を執った。……それなのに。あの子が最後に守ったものは何です? 国の未来ですか? 拾ってもらった恩義ですか?」


 彼女の指先が、私の胸元を強く指し示す。


「……いいえ、違う。あの子が命を捨てて守ったのは、ただの、身の程知らずな辺境伯の令嬢(あなた)だ。あなたが、余計なことをしなければ……」


 彼女の瞳に、熱い涙が滲む。けれどそれは零れることなく、憎悪の炎で蒸発していく。


「あなたが、大人しく、何も知らない令嬢として椅子に座っていれば。柄にもない正義感や好奇心で、レグルス砦なんて地獄へ首を突っ込まなければ! ……あの子は今もあたしの隣で笑っていたはずだ!! あたしたちには、お互いしかいなかったのに!!」


 絶叫に近い、魂の慟哭。


 それは、物語の"主人公"として突き進んできた私に向けられた、最も残酷で、最も正当な断罪だった。


 私は消沈し、視線を落とすことしかできなかった。


 スピカの死は、この世界を書き換えようとした私が支払わせた代償だ。二人きりで支え合ってきた彼女たちの唯一の絆を、私が断ち切ってしまったのだ。


 だが。


 うなだれる私の耳に届いた彼女の次の言葉が、微かな、けれど確かな"違和感"として引っかかった。


「……あなたは昔からそうだった。あの子が大人しいのをいいことに、我儘を言って困らせて。挙句の果てに、あの子を死地にまで引きずり込んだ。今の殊勝な態度も、結局は自分の罪悪感を宥めるためのパフォーマンスに過ぎないのでしょう?」


(……昔から?)


 その言葉は、私――"こはる"の魂がこの身体に宿る前の、かつてのノクティア・グラスベルを指していた。


 ザラの怒りは、今の私だけでなく、かつての傲慢だった"ノクティア"という少女の全人格に向けられている。それは、自分自身を上書きして消えていった元の体の持ち主に対する、侮辱に近い評価だった。


 私は"こはる"として、彼女の悲しみを受け止める義務がある。


 けれど、同時に、この身体の持ち主であった少女が、ただの"無神経な主君"として断罪され、その上でスピカが死んだのだと定義されることに、言いようのない痛みを覚えた。それは、私の知る"物語"の書き換えでは救えない、あまりに生々しい、人の愛のなれの果てだった。


「……お引き取りください、ノクティアお嬢様。これ以上、私にあなたの顔を見せないでほしい」


 ザラは冷たく言い放ち、背を向けた。


 その背中は、震えていた。怒りで、それとも、失った半身を思い出してしまった悲しみでだろうか。


「ザラ、私は……」


「これ以上の言葉は無意味です。あなたの持っている知恵や弁舌で、あの子が生き返るとでも? シューエの名前は、もう十分にお嬢様に尽くしました。これ以上、あたしから何を奪えば気が済むのですか」


 その一言が、決定打だった。

 私は、何も言葉を返すことができなかった。


 得意の"知恵"も、状況を打破するための戦略も、ここでは何の役にも立たない。


 目の前にいるのは、攻略すべき敵ではなく、私が守れなかった"誰かのたった一つの世界"の残骸なのだ。


 肉親を失った者の絶望という、あまりに重く、あまりに正当な不条理。


 私は、逃げるようにテラスを後にした。背後で、ガシャン、と陶器が割れるような音が聞こえた気がした。それが彼女の心そのものの音に聞こえて、私は一度も振り返ることができなかった。


 駐屯所の門を出た時、空はいつの間にか分厚い雲に覆われ、冷たい雨が降り始めていた。


 グラスベルの令嬢として、物語の紡ぎ手として。


 私は初めて、救えない心があることを、その身を焼くような痛みと共に知ったのだった――。


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