142話「命からがら、帰還」
ガーランド大公国の凍てつく夜から、数日が経過した。
私は、慣れ親しんだグラスベル領の自室で、窓の外に広がる穏やかな緑を眺めていた。
視界に入るのは、公国の不自然な氷ではなく、春の気配を待ちわびる柔らかな陽光。けれど、私の心に深く刻まれた冷気の感触は、今も消えることなく澱のように溜まっている。
(……結局、私たちが持ち帰れたのは、傷だらけの身体と、同じく傷付いた公国との信頼関係のみ、か)
ヴァルゴ王への事後報告は、魔法通信と書簡による最低限のものに留めた。
アルトもギエナも、一刻も早い療養を必要としていたからだ。リゲルとの共同戦線、そしてタニアを巡る不透明な状況。それらを説明するために王都へ向かうよりも、まずは戦力である二人を死なせないことが最優先だった。
二人は今、領内の騎士団詰め所にある、療養所で眠っている。
"赤ずきん"を打ち破り、"人類到達点"に刃を届かせたアルトの右腕は、いまだに分厚い包帯に巻かれ、深手を負っていたギエナの顔には、生気が完全には戻っていない。
"姫"を擁する帝国を相手取って、まともに戦うことができるのは、この世界に干渉できる私を除けばあの二人しかいないのだ。
となれば、彼らが癒えるまでは、私は物理的な戦場へ向かうことさえ叶わない。
「……はぁ」
私は溜息を吐き、机の上に積まれた領地の内政書類に視線を落とした。
帝国が動き出すまでの時間を考えれば、のんびりとはしていられない。もし帝国が総力を持って動き出せば、国境近くにあるグラスベル領は、真っ先に戦場になる。
防壁の補強、備蓄の確認、避難経路の再周知。領主としてやるべき仕事に没頭することで、私は胸の奥にある焦燥を誤魔化そうとしていた。
そんな、重苦しい思考に沈んでいた時のことだ。
「お、お嬢様ぁ……。たすけてほしいっす……あたし、もう死んじゃうっすよぉ……」
ノックもそこそこに、ずるずると這いずるような音を立てて執務室に入ってきたのは、我が侍女、シャウルだった。
見れば、いつも以上に制服の着こなしが整えられすぎており、そのせいで彼女の"中身"が窮屈そうに悲鳴を上げている。そして、その顔は文字通り、魂が口から漏れ出さんばかりにヘロヘロだった。
「……あら。随分と"磨かれた"わね、シャウル」
「磨かれすぎっすよ! 磨かれすぎて、あたしの脂肪が削げ落ちちゃうっす! あたし、ぷりてぃーなシャウルちゃんじゃなくて、ただの削り節になっちゃうっす!」
彼女は私の足元に倒れ込むと、縋るような目で私を見上げた。
どうやら、最近はあたしと旅をすることが多く、侍女としての本来の仕事を疎かにしていたせいで、領主館に残っていた先輩侍女たちに随分としごかれたらしい。
"旅先で野生児に戻った皮を剥いでやる"という、侍女頭たちの気合の入った教育を一身に受けた結果が、この有様というわけだ。
(……まったくもう、この子は……)
呆れながらも、私は彼女の頭にそっと手を置いた。
公国での戦い、シャウルもまた、恐怖と空腹の中でよく耐えた。彼女がいなければ、私の心はもっと早くに摩耗していただろう。
「いいじゃない。今のあなた、少しはまともな侍女に見えるわよ?」
「そんな外見だけの評価はいらないっす! あたしに必要なのは、慈悲と、休息と、あと美味しいお肉っす!」
シャウルはガバッと起き上がると、不意に、何かに火がついたような勢いで詰め寄ってきた。
「お嬢様、聞いてほしいっす! あたし、この地獄の教育を耐え抜くための、心の支えを見つけたんすよ!」
「心の支え?」
「そうっす! 今度、王都で開催される"銀髪祭"っす! あたし、どうしてもそこに行きたいんすよぉ!」
「銀髪祭……? そういう、お祭りがあるの?」
私は頭の中に、元の世界であったような縁日の景色を思い浮かべていた。
否、祭儀としての意図が薄れてしまった現代社会と比べれば、もしかするとこっちのお祭りにはもっと、儀礼的な意味があるのかもしれない。
「そうっす! 王都じゅうの美味しい屋台が集まる、食いしん坊の聖地っす! そこでお嬢様と一緒に、これでもかってくらい買い食いをするのが、あたしの今の全目標っす!」
目を輝かせて、あたしに祭りの魅力を語るシャウル。
彼女にとっての祭りは、伝統行事などではなく、ただの巨大な屋外レストランに過ぎないのだろう。
「お嬢様も、ずっと公国で寒い思いしてたじゃないっすか。たまにはぱーっと、王都で美味しいもの食べて、英気を養うべきっすよ!」
公国での"敗北"は、私たちの物語に深い爪痕を残した。
けれど、目の前で鼻を鳴らして食べ物の話を熱弁する侍女を見ていると、止まっていた時間が、少しだけ動き出したような気がした。
「……そうね。アルトたちの容態が安定したら、考えておきましょう」
「やったっす! さすがお嬢様っす! よーし、そうと決まれば、あたし、お肉の幻影を見て耐えてみせるっすよ!」
拳を握りしめて宣言し、足取り軽く、しかし空腹の音を鳴らしながら、部屋を出ていくシャウル。
嵐の前の、あまりに平和なやり取り。
私は再び、窓の外を見つめた。
その祭りが、私たちにとっての休息になるのか、それとも。
銀色の、白銀の祭りという言葉に、私は一瞬だけ、アダーラの纏っていた極寒の風、を思い出し、僅かに身震いした。




