表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
153/175

142話「命からがら、帰還」

 ガーランド大公国の凍てつく夜から、数日が経過した。


 私は、慣れ親しんだグラスベル領の自室で、窓の外に広がる穏やかな緑を眺めていた。


 視界に入るのは、公国の不自然な氷ではなく、春の気配を待ちわびる柔らかな陽光。けれど、私の心に深く刻まれた冷気の感触は、今も消えることなく澱のように溜まっている。


(……結局、私たちが持ち帰れたのは、傷だらけの身体と、同じく傷付いた公国との信頼関係のみ、か)


 ヴァルゴ王への事後報告は、魔法通信と書簡による最低限のものに留めた。


 アルトもギエナも、一刻も早い療養を必要としていたからだ。リゲルとの共同戦線、そしてタニアを巡る不透明な状況。それらを説明するために王都へ向かうよりも、まずは戦力である二人を死なせないことが最優先だった。


 二人は今、領内の騎士団詰め所にある、療養所で眠っている。


 "赤ずきん"を打ち破り、"人類到達点"に刃を届かせたアルトの右腕は、いまだに分厚い包帯に巻かれ、深手を負っていたギエナの顔には、生気が完全には戻っていない。


 "姫"を擁する帝国を相手取って、まともに戦うことができるのは、この世界に干渉できる私を除けばあの二人しかいないのだ。


 となれば、彼らが癒えるまでは、私は物理的な戦場へ向かうことさえ叶わない。


「……はぁ」


 私は溜息を吐き、机の上に積まれた領地の内政書類に視線を落とした。


 帝国が動き出すまでの時間を考えれば、のんびりとはしていられない。もし帝国が総力を持って動き出せば、国境近くにあるグラスベル領は、真っ先に戦場になる。


 防壁の補強、備蓄の確認、避難経路の再周知。領主としてやるべき仕事に没頭することで、私は胸の奥にある焦燥を誤魔化そうとしていた。


 そんな、重苦しい思考に沈んでいた時のことだ。


「お、お嬢様ぁ……。たすけてほしいっす……あたし、もう死んじゃうっすよぉ……」


 ノックもそこそこに、ずるずると這いずるような音を立てて執務室に入ってきたのは、我が侍女、シャウルだった。


 見れば、いつも以上に制服の着こなしが整えられすぎており、そのせいで彼女の"中身"が窮屈そうに悲鳴を上げている。そして、その顔は文字通り、魂が口から漏れ出さんばかりにヘロヘロだった。


「……あら。随分と"磨かれた"わね、シャウル」


「磨かれすぎっすよ! 磨かれすぎて、あたしの脂肪(だいじなもの)が削げ落ちちゃうっす! あたし、ぷりてぃーなシャウルちゃんじゃなくて、ただの削り節になっちゃうっす!」


 彼女は私の足元に倒れ込むと、縋るような目で私を見上げた。


 どうやら、最近はあたしと旅をすることが多く、侍女としての本来の仕事を疎かにしていたせいで、領主館に残っていた先輩侍女たちに随分としごかれたらしい。


 "旅先で野生児に戻った皮を剥いでやる"という、侍女頭たちの気合の入った教育を一身に受けた結果が、この有様というわけだ。


(……まったくもう、この子は……)


 呆れながらも、私は彼女の頭にそっと手を置いた。


 公国での戦い、シャウルもまた、恐怖と空腹の中でよく耐えた。彼女がいなければ、私の心はもっと早くに摩耗していただろう。


「いいじゃない。今のあなた、少しはまともな侍女に見えるわよ?」


「そんな外見だけの評価はいらないっす! あたしに必要なのは、慈悲と、休息と、あと美味しいお肉っす!」


 シャウルはガバッと起き上がると、不意に、何かに火がついたような勢いで詰め寄ってきた。


「お嬢様、聞いてほしいっす! あたし、この地獄の教育を耐え抜くための、心の支えを見つけたんすよ!」


「心の支え?」


「そうっす! 今度、王都で開催される"銀髪祭"っす! あたし、どうしてもそこに行きたいんすよぉ!」


「銀髪祭……? そういう、お祭りがあるの?」


 私は頭の中に、元の世界であったような縁日の景色を思い浮かべていた。


 否、祭儀としての意図が薄れてしまった現代社会と比べれば、もしかするとこっちのお祭りにはもっと、儀礼的な意味があるのかもしれない。


「そうっす! 王都じゅうの美味しい屋台が集まる、食いしん坊の聖地(パラダイス)っす! そこでお嬢様と一緒に、これでもかってくらい買い食いをするのが、あたしの今の全目標っす!」


 目を輝かせて、あたしに祭りの魅力を語るシャウル。


 彼女にとっての祭りは、伝統行事などではなく、ただの巨大な屋外レストランに過ぎないのだろう。


「お嬢様も、ずっと公国で寒い思いしてたじゃないっすか。たまにはぱーっと、王都で美味しいもの食べて、英気を養うべきっすよ!」


 公国での"敗北"は、私たちの物語に深い爪痕を残した。


 けれど、目の前で鼻を鳴らして食べ物の話を熱弁する侍女を見ていると、止まっていた時間が、少しだけ動き出したような気がした。


「……そうね。アルトたちの容態が安定したら、考えておきましょう」


「やったっす! さすがお嬢様っす! よーし、そうと決まれば、あたし、お肉の幻影を見て耐えてみせるっすよ!」


 拳を握りしめて宣言し、足取り軽く、しかし空腹の音を鳴らしながら、部屋を出ていくシャウル。


 嵐の前の、あまりに平和なやり取り。


 私は再び、窓の外を見つめた。


 その祭りが、私たちにとっての休息になるのか、それとも。


 銀色の、白銀の祭りという言葉に、私は一瞬だけ、アダーラの纏っていた極寒の風(ダイヤモンドダスト)、を思い出し、僅かに身震いした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ