141話「傷だらけで結んだ手」
ディバルド大公の国葬が終わり、アークトゥルスの街を覆っていた弔いの鐘の音が止んだ。
降り積もる雪は依然として止む気配を見せなかったが、その白さは、公国が受けた深い傷を一時的に覆い隠す、静かな包帯のようにさえ感じられた。
私はシャウルを廊下に待たせ、宮殿の最奥にある執務室の扉を叩いた。
そこには、以前と変わらぬ姿で――否、以前よりも膨大な書類の山と格闘しているリゲル・ヴァント=ガーランドの姿があった。
「……来たか。葬儀は退屈だったろう、ノクティア・グラスベル」
リゲルは顔を上げることなく、ペンを走らせる。その傍らには、守護者たるヴェルギウス・クラインが、深い影を落とした彫刻のように控えていた。彼もまた満身創痍のはずだが、その眼光は鋭く、主君を護るという一念だけでその肉体を支えているようだった。
私がここへ来たのは、葬儀の最中に手渡された一通の封書が理由だ。
そこには、簡潔にこう記されていた。
『今すぐ我が執務室へ来い。……王国側が提案していた"共同戦線"の条件、すべてを呑んでやる』
あれほどまでに頑なに共同戦線を拒み、公国の自律と"いばら姫"の秘匿に固執していた彼が、あまりにも急な心変わりだった。
「手紙、読ませてもらったわ。……ずいぶんと聞き分けが良くなったのね。あのアダーラの冷気が、あなたの頑固な頭まで冷やしてくれたのかしら?」
私の皮肉に、リゲルはようやく顔を上げ、自嘲気味に口元を歪めた。
「ふん。我の頭は、冷やされるまでもなく氷点下だ。……急な心変わり、か。理由が気になるのなら、貴様のお付きの騎士にでも聞いてみるがいい」
「アルトに?」
「ああ。……貴様らは、前大公と約束していたのだろう? ……ヴェルギウスという、人類の極北に一太刀を浴びせるという、無謀極まりない条件でな」
背後に立つヴェルギウスが、僅かに頬の傷に指を這わせたのを私は見逃さなかった。
そうか。アルトは、意識を失う直前まで戦っていたのだ。私たちの知らないところで、この意固地な皇太子の心を動かすために。
リゲルは持っていたペンを置き、背もたれに深く身体を預けた。
その瞳には、かつての傲岸不遜な光よりも、どこか澄み渡った、それでいて重い責任を背負った男の覚悟が宿っていた。
「……認めざるを得ん。我の考えは、あまりに甘すぎた。この公国の騎士団があれば、"いばら姫"の茨があれば、不条理の王女など容易く退けられると……そう、高を括っていたのだ。……不条理な"姫"という存在への、理解があまりにも浅すぎた」
彼は自らの手のひらを見つめる。そこには、覚醒したばかりの"棘無き茨"の魔力残滓が、消えぬ痣のように刻まれている。
「父を奪われ、民を凍えさせ、ようやく目が覚めたよ。……もはや、この国だけでは、あの異形どもの行進は止められん。ノクティア、我は約束しよう。貴様らが帝国へと刃を向けるその時、ガーランドは必ず、貴様らの背を守るために駆けつけると」
それは、初めてリゲルという個人が、私という個人に向けた、嘘偽りのない"言葉"だった。
騎士の国としてではなく、システムの一部としてでもなく。
ただ、愛する者を守るために強くなろうとする、一人の男としての誓い。
「……わかったわ。その言葉、信じさせてもらうわよ」
私は頷き、懐から小さな硝子の小瓶を取り出した。その中には、アルフェッカの分身である銀色の光が、静かに揺蕩っている。
もう、彼女は小人の形すらも保てていなかった。しかし、それでも"星の塔"とこの場を繋ぐくらいの力は残っている。
「これを、地下の"薔薇の根"へ置いておいて。アルフェッカが、この宮殿を流れる龍脈とタニアの接続を調整してくれるわ。これで魔力の供給効率は格段に上がるはずよ」
「……感謝する。だが、それでも……」
「ええ。アルフェッカの見立てだと、タニアが目を覚ますのに必要な魔力が溜まるのは、早くても数ヶ月後。……帝国との決戦に間に合うかは、微妙なところね」
それが、現時点での残酷な結論だった。
不条理を打ち倒すための切り札。その目覚めを待つには、半年という時間はあまりに短く、そして、平和を維持するにはあまりに長すぎる。
だが、その不確かな見通しを聞いても、リゲルの表情には微塵の動揺もなかった。
彼はむしろ、楽しげですらある顔で私を見据えた。
「なに、気にするな。……ノクティア・グラスベルよ。たとえタニアが目覚めなくとも、貴様ならば……どうあれ、帝国に対抗する方法など、いくらでも思いつくだろうよ」
「……随分な買い被りね。あたしは、ただの物語の書き換え手よ?」
「いいや、違うな。……貴様は、絶望の結末を強要する奴らの鼻面を、自分勝手な幸福で殴りつける、最悪で最高な"不条理"だ。……期待しているぞ。我らがタニアを目覚めさせる頃、すでに戦争は終わっていた……などという展開をな」
そう言って笑うリゲルの表情には、かつて私を"利用すべき駒"として、あるいは"下に見るべき者"として扱っていたような色は、もう欠片も残っていなかった。
「……言われなくても、そうしてやるわよ。あたしの物語に、バッドエンドは似合わないもの」
「フ、それでこそだ」
執務室を去り際、私はヴェルギウスに視線を向けた。彼は私に一瞥をくれると、深く、短く頭を下げた。
それは、誇り高き"到達点"が、一人の異邦人を認めた証。
「お嬢様! 終わったんすか!? もうあたし、お腹空きすぎて宮殿の壁を齧りそうだったっすよ!」
廊下へ出ると、シャウルが飛んできて私の袖を引っ張った。
その能天気な声に、私は自分が知らないうちに溜め込んでいた緊張が、少しだけ解けるのを感じた。
「ええ、終わったわよ、シャウル。……行きましょう。私たちが、次の一ページを書き記すべき場所へ」
「そうっす! まずはお肉のページっすね! 公国の厚切りベーコンを堪能してからじゃないと、あたしの物語は始まらないっす!」
相変わらずの食いしん坊な侍女を連れて、私は雪の降り頻る中庭へと足を踏み出した。
傷だらけの公国。
眠り続けるいばら姫。
そして、半年後に迫る世界の終焉。
課題は山積み。けれど、その足取りは昨夜よりもずっと、確かなものへと変わっていた。
(待っていなさい、アダーラ。……半年後、最高の物語で、あなたの冷気を融かしてあげるわ)
私は懐のリゲルから預かった新しい手紙――今度は、"次に向かうべき場所"が示唆された密書を、そっと指先でなぞった。




