139話「ビター・ホワイト」
勝利への道筋が、確かに見えたはずだった。
覚醒したリゲルが操る"棘無き茨"がアダーラの凍てつく拘束を粉砕し、ノクティアの硝子の剣が再び戦場に虹色の軌跡を描く。形勢は逆転し、不条理の王女を追い詰める準備は整った。
だが、その確信は、目の前に立つ少女の"変質"によって、瞬時に凍りついた。
「……ぁ、……ぁあ……っ」
アダーラの身体が、糸の切れた人形のようにガタガタと震え始めた。
先ほどまでの、すべてを冷徹に凍てつかせていた"雪の女王"としての鉄面皮はどこへ行ったのか。彼女の白磁の指先はブルブルと激しく震え、焦点の合わない瞳は虚空を彷徨い、その奥でどろりとした恐怖が渦を巻いている。
カチカチ、カチカチと、歯の根が合わぬ音が地下回廊に不気味に響く。
「……うそ、そんな、まさか。……いやだ、いやだよ。おねがい、いかないで……」
譫言のように、少女は繰り返す。リゲルを、あるいはリゲルの背後にある"何か"を睨みつけたまま、彼女の纏う冷気は制御を失い、周囲を無差別に凍らせ、あるいは急激に融解させては不規則な霧を立ち昇らせた。
「おい、グラスベル……何だ、あの子の様子は。……おかしいぞ」
リゲルが茨を構えたまま、困惑の声を漏らす。ノクティアもまた、攻撃の機を逸したまま、その異様な光景にただ圧倒されていた。
次の瞬間。アダーラは、血を吐くような悲鳴に近い声音で、ぽつりとこう呟いた。
「――カイ。ああ、カイの……こころが、とけていったのね……!」
その名を聞いた瞬間、ノクティアの脳裏に電撃のような閃きが走った。
「……まさか! ああ、そういうことだったのね……!」
ノクティアは震える声で、その残酷な正体を口にした。
「リゲル、聞いて。あの子が内包している物語は、一つじゃなかったのよ。……アダーラは、"雪の女王"でありながら、同時に――"ゲルダ"でもあるのよ!」
リゲルは、信じがたいものを見るようにノクティアを振り返った。
「何だと……!? 女王とゲルダ……?」
「――ゲルダは、『雪の女王』において、親友の男の子、カイを攫われたことから旅に出る、早い話が、物語の主人公ね」
「……馬鹿な、支配者と救済者が、同じ器にいるというのか」
「ええ。物語の理屈よ。すべてを凍てつかせる女王の氷は、少女ゲルダの涙でしか溶かせない。……けれど、帝国は、その"弱点"さえも自分たちの中に閉じ込めたの。救う側の心さえも氷の概念に塗り潰して、実質的な無敵を作り上げたのよ」
アダーラという存在は、自己完結した牢獄だった。
凍らせる力と、それを溶かす悲しみの心が、一つの器の中で矛盾したまま共存している。だが、先ほどリゲルが"生命の熱"を持って放った茨――タニアから託された愛の種――が、アダーラの深層に眠る"ゲルダの心"を激しく揺さぶったのだ。
リゲルの熱が、カイを救おうとするゲルダの記憶を呼び起こしてしまった。
それは彼女にとって、自分という存在を支える"物語の安定性"が崩壊するに等しい激痛だった。
「いや……っ、カイ、どこ? どこに……いっちゃうの……!?」
アダーラは頭を抱え、絶叫した。
彼女の目から、大粒の涙が零れ落ちる。その涙が触れた床の氷が、見る間に溶けて水溜りへと変わる。しかし、それ以上に強大な"女王"の冷気が、その涙さえも瞬時にダイヤモンドダストへと変え、彼女自身を傷つけていく。
今こそ攻め込むべき好機。
ノクティアが剣を握り直し、リゲルが茨を伸ばそうとした、その時。
「……いや。こないで……おねえちゃん、おにいちゃん……いやだよ……っ」
アダーラは、怯える子供のように激しく首を振り、そのまま背後の闇へと逃げるように駆け出した。
彼女の通った後には、融けた水と、凍りついた結晶が混ざり合った、歪な道標が残されていた。
その背中を追おうとしたノクティアの足が、不意に止まった。
追えないのではない。追うべき"理由"が、彼女の去り際の一言によって、ほんの一瞬、氷の下に隠れてしまった。
歪な女王が姿を消すのには――それだけの暇があれば十分だった。
「……消えたわね」
ノクティアが、力なく剣を消した。
地下回廊には、松明の火がパチリと爆ぜる音だけが残り、重苦しい静寂が再び支配した。
本来なら、最強の敵を退けたという喜びに沸くべき瞬間だ。リゲルは覚醒し、アダーラは自壊の予兆を見せて敗走した。これは、公国の勝利と言えるはずだった。
だが。
「……勝った、というのか。我々は」
リゲルの声は、砂を噛むように乾いていた。
アダーラは倒れたのではない。ただ、自分の中の"悲しみ"に耐えかねて、戦いの場を放棄したに過ぎない。
そして、二人が守り抜いたはずのこの地下廊下。その先にある"薔薇の根"には、今も変わらず、リゲルが目覚めさせたくない、目覚めさせてはならない最愛の少女が眠っている。
一方で、彼女を目覚めさせるというノクティアの目論見も、未だに達成できていない。
さらに、大公ディバルドももういない。騎士団は壊滅的な打撃を受け、街は氷に閉ざされ、誇り高きガーランドの心臓部はズタズタに引き裂かれた。
手元に残ったのは、不完全な勝利という名の、あまりにも重い敗北の残滓だけだった。
「……いいえ。私たちは、失ったのよ」
ノクティアが、壁に凭れかかりながら呟いた。
「あの子を……アダーラという少女を、救うことも、終わらせることもできなかった。そして、私たち自身の"物語"さえも……あの氷の冷たさに、浸食されてしまったみたいに」
リゲルは、自らの掌に宿る"棘無き茨"を見つめた。
タニアから託されたこの奇跡は、確かにアダーラを撃退した。だが、それは同時に、リゲルが"ただの少年"として彼女を守りたかったあの日々が、もはや完全な過去……戦うための"力"へと変換されてしまったことを意味していた。
誰もいない地下廊下。
勝利の歓声など、どこにもない。
ただ、二人の胸に、底知れぬ喪失感と、逃げ場のない敗北感が、冷たく、深く、積もっていく――。




