138話「冬征く薔薇」
最初に違和感に気が付いたのは、執行者であるアダーラの方だった。
その指先は、確かにリゲルの頸動脈を凍てつかせ、命の灯火を消し飛ばす寸前まで追い込んでいたはずだった。
あらゆる命を停止させる、絶対零度の理が、無力な人間の肉体を内部から破壊し、彫像へと変える――その確信が、彼女の無機質な貌に微かな充足を与えていた。
だが、その指先に伝わってきたのは、死の冷寂ではなかった。
それは、凍てついた皮膚を内側から焼き切るような、熾烈で、猛々しいほどの"熱"だった。
「……!?」
アダーラが、初めてその眉を寄せた。
リゲルの首元から、あるいはその胸の空いた風穴の奥底から。噴き出してきたのは鮮血ではなく、見る間に膨れ上がっていく濃密な魔力の奔流。それは彼女がこれまでに戦場で遭遇してきた、どの魔術師や騎士とも異なる、奇妙に懐かしく、そして暴力的なまでに生命力に満ちた輝きだった。
「うそ、あなた……それ、どうやって……」
何か、自分たちの存立を脅かす未知の脅威を危惧するように、アダーラは冷気の出力を一気に引き上げようとする。周囲の空気が瞬時にダイヤモンドダストとなって荒れ狂い、さらなる凍結がリゲルの肉体を包み込もうとした。
しかし、不条理が牙を剥くよりも、男の"意志"が芽吹く方が、僅かに早かった。
ビキ、ピキピキッ、と。
氷が砕ける音ではない。何かが凄まじい力で"成長"し、空間を侵食していく音が、地下廊下に響き渡った。
「――貴様に一つ、教えてやらねばならぬな」
低く、地這うような、けれど王者の威厳を取り戻した声。
その声に、アダーラが感じたのは、恐怖だった。
恐らくは、本能的なもの。被食者が捕食者の気配を感じるように、思わず彼女は、一歩引こうとした。
――しかし、それよりも早く、彼女の視界が、漆黒の蔓によって遮られた。それは彼女の腕を、首を、胴を、瞬きする間もなく縛り上げた。
"棘のない茨"。
節くれ立った無数の蔓。そこに、触れる者を傷付ける鋭利な刺々しさはない。一見すれば、滑らかですらあるその表面。だが、そこに秘められた緊縛の力は、万力のような無慈悲さでアダーラの華奢な肉を、骨を、そして彼女の纏う魔力の防壁さえも、音を立てて締め上げていく。
「我らガーランドは、建国より八百年……この、死を待つばかりの極寒の地で生きてきた」
茨の蔓は、死にかけていたはずの男――リゲル・ヴァント=ガーランドの掌から、その溢れ出す生命の奔流として伸びていた。
男は首を掴まれたまま、力強くアダーラの手を振り払う。首筋に刻まれた凍傷が、赤く脈打ちながら蒸気を上げていた。
「知れ、不条理の女王よ。……公国の薔薇は、冬をも征するのだ」
リゲルは、不敵に口元を歪めた。
同時に、彼から放たれた茨の蔓が、爆発的な速度で地下回廊を駆け巡る。それはまるで、主の怒りに呼応する意思を持った生き物のようだった。
蔓は、壁際でノクティアを戒めていた巨大な氷柱へと殺到する。
絶対零度の結晶であるはずのその柱を、"棘無き茨"は難なく締め上げ、粉々に粉砕した。
「――っ、まほう……なんで、あなたが……!?」
拘束から逃れ、背後の闇へと素早く後ずさったアダーラが、困惑に満ちた声を上げた。
その正面で、リゲルは未だに溢れ出し続ける自らの魔力を見つめ、静かに呟いた。
「……そうか、あの時に。……君は僕に、託していたのか」
脳裏に浮かぶのは、あの冷たく、けれど世界で一番温かかった地下室の記憶。
タニアが永い眠りに就いた、あの晩。
最期の抱擁と共に、彼女がリゲルの胸の中に密かに埋め込んだ、魔法の"種"。
"平和を"という呪いのような約束と共に託されたその力は、武才なき自分を呪い続けたリゲルの心の中で、十年の間、眠り続けてきた。
もし、リゲルが傲慢な皇太子のまま、自らの弱さを認めぬまま魔法を求めていたなら、この種が芽吹くことはなかっただろう。
死の淵で自らの無力を認め、それでもなお、誰かを守りたいと願った心の熱量。
それが今、不条理の零度を融かし、公国の守護者としての力を呼び覚ましたのだ。
その想いを感じ取ったからこそ――棘無き茨の皇子は、気高く立ち上がる。
「――よくもやってくれたな、"雪の女王"よ。ガーランドの聖域にこれだけの狼藉を働いたのだ。タダで帰れるなどと思うなよ」
リゲルが手を一振りすると、漆黒の茨が彼の背後で巨大な翼のように展開された。
「――っ、カッコつけすぎなのよ、あなた!」
戒めを解かれたノクティアが、ボロボロになった身体を叱咤してリゲルの横に並ぶ。その手には、再び虹色の輝きを放つ硝子の剣が握られていた。
形勢は逆転した。
全てを凍てつかせる、無敵の"姫"に対し、覚醒した皇太子と、不屈の硝子の少女。
公国の運命を賭けた戦いは、今、最高のカタルシスを伴って反撃の火蓋が切られようとしていた。
誰もが、勝利への道筋が見えたと信じた。
誰もが、ここから物語が好転していくのだと、そう信じて疑わなかった。
――異変が起こったのは、そんな瞬間だった。




