137話「"不必要"を否定して」
◆◇◆
首筋に、鉄の枷を嵌められたような重苦しい感覚があった。
いや、もはや感覚と呼べるものは、我の身体から一秒ごとに剥ぎ取られていた。
アダーラ。
無垢な死の執行者の掌から伝う冷気は、我の頸動脈を凍らせ、脳へと巡る血液を氷の結晶へと変えていく。肺は凍てついた空気を拒絶し、心臓の鼓動は遠い雷鳴のように、間隔を空けて不規則に鳴り響いていた。
(……我は、間違えていたのだろうか)
白濁していく視界の端で、ぼんやりとそんな思考が、泥のように沈殿していく。
グラスベルの提案は、冷徹な戦略眼で見れば"正解"だった。感情を殺し、扉の向こうに眠るタニアを目覚めさせ、その不条理な茨の力をもって帝国の先触れを打ち倒す。そうして公国の崩壊を食い止めるべきだったのだ。
そうすれば、今こうして無様に、一少女の手首一つで命を散らすような喜劇を演じずに済んだのではないか。
(――は。軍略家、知略家を気取ったこの我が、いざ実戦の場でこの死に様か。笑われても、仕方のないことだな)
喉が、メキメキと嫌な音を立てる。
もはや首元に感覚はない。あとは、この彫刻のような鉄面皮を崩さぬこの女が、ほんの少し指先に力を込めれば、我の首と胴は、冬の枯れ木のように容易く泣き別れになるだろう。
我はゆっくりと、抵抗を止めて目を閉じた。
最期に網膜に焼き付いた景色は、感情を排して我を殺しにかかる女の貌と、氷の柱に拘束され、声を枯らして何事かを叫び続ける、ノクティア・グラスベルの姿だった。
ボロボロになり、勝算など何処にもないはずなのに。
彼女の瞳には、まだ"何か"を諦めた色はなかった。
(……後は、貴様に託すとするか。ノクティアよ。我という最悪の"重し"が取れれば、貴様なら、あるいは……)
――そこで、意識の糸が、ぷつりと切れる。
我は、永遠に続くであろう地下の暗闇へと、真っ逆さまに堕ちていった。
音も、光も、重力さえない世界。
そこに、波紋のように一つの響きが広がった。
――本当に、それでいいの?
身体を揺さぶるような振動。
それは、我の心臓が止まるよりも、ずっと、ずっと聞きたかった声。
十年の歳月が経とうとも、一瞬たりとも忘れたことのなかった、あの地下室の主の声だった。
「――タニア!?」
心中で、血を吐くような叫びを上げる。
形を失いかけた意識の中に、麗しき声が鮮明に木霊した。
――あなたにはまだ、やるべきことがあるはず。
――あなたにしか、できないことが……あなたにしか守れないものが、あるはずだよ。
だが、我は、いや、"僕"は、その声を遮るように、諦念と共に言葉を返した。
「……そんなものは、無かったんだ。タニア。僕は結局、どこまで行っても……棘の一本すら生やすことができない、不必要な男のままだった」
君を守ることもできず、君に押し付けられた平和を叶えることもできず。
それらしい言葉で飾った軍略を弄して、勝機を見誤り、ただ傲慢に溺れて死んでいく。
ただの勘違いした哀れな凡人の一人。それが僕の、正体だったんだ。
僕は、歩んできたこれまでの研鑽を、その全人生を自嘲した。
暗闇の中で膝を折り、消えゆく魂をただ静かに受け入れようとする。
しかし。
その、重く暗い"自己否定"を、タニアの声は、柔らかな確信を持って否定した。
――嘘。……あなたは、まだ諦めていない。……と思う。
記憶の中に残る、あの自信なさげで、儚げな声。
けれどその一言だけは、僕たちの運命を決定づけたあの夜と同じように、揺るぎない断言として響いた。
――あなたは、私に誓ってくれたじゃない。
――不必要なんて言葉に甘えて、死ぬことを選ぶような……そんな格好悪い人じゃ、ない。……たぶん、だけど。
暗闇の底に、一筋の、白く細い光が差し込んだ。
それは、アダーラの放つ"死の白"ではない。
かつて地下室で、不器用な少年共に囁き合った、少女の体温が宿った"生"の色だ。
――思い出して。
――あなたが本当に、研ぎ澄ませてきたものの正体を。
――剣を持てなかったあなたが、それでも、私のために磨き続けた……その手のひらの熱を。
タニアの声が、僕の全身を貫いた。
凍りついていた指先が、微かに跳ねる。
止まりかけていた心臓が、一度、激しい火花を散らすようにして再起動した。
(……ああ。そうだ)
僕――否、我は、ただ死を待つための装置として生きてきたのではない。
彼女を目覚めさせ、彼女が笑える世界を創る。その、あまりに不条理で、あまりに甘い理想を叶えるために、この半生、公国のあらゆる闇を飲み込み、光を紡いできたのだ。
剣が握れぬのなら、世界そのものを剣にすればいい。
力が無いことになど、飽きるほど絶望してきたのだ。
もう、我にこれより下はない。泥に塗れ、落ちるところまで落ちたのだから、後は、成すべきことを成すために、立ち上がるのみだ。
(我は……まだ、何一つとして、果たしていないッ!!)
閉ざされていた瞼の裏に、銀色の閃光が走る。
それが、死の間際の幻聴なのか、あるいは薔薇の根に眠る彼女が起こした奇跡なのかは、もはや重要ではなかった。
"棘無き薔薇"が、その本質を剥き出しにする。
そして、世界に牙を剥くための産声を上げた――。
◆◇◆




