136話「棘無き目覚め」
地下へと続く階段を、我は何度転びそうになりながら駆け下りただろうか。
肺は焼けるように熱く、喉の奥からは鉄の味がせり上がってくる。虚弱な僕の身体はとうに限界を超えていたが、それでも止まることは許されなかった。
扉を押し開け、辿り着いた"薔薇の根"。
そこには、かつてないほど濃密に繁茂した漆黒の茨に囲まれ、深い、深い眠りの淵に沈みつつあるタニアの姿があった。
「タニア! タニア!! 起きてくれ、僕だ、リゲルだ!!」
我は彼女の側に駆け寄り、その冷え切った肩を必死に揺さぶった。だが、彼女の瞼は重く閉ざされたままで、返ってくるのは微かな吐息だけだった。
我は叫び、彼女の名を何度も、喉が裂けるほどに呼び続けた。僕の涙が彼女の頬を濡らし、絶望が視界を塗り潰そうとした、その時。
「……リゲル、……。来てくれたんだ。……もう、来ないかと思ってた」
ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼女がその瞳を開いた。
光を失いかけ、硝子細工のように透き通った瞳。そこには、覚めぬ眠りへの恐怖ではなく、愛しい者に再会できたことへの、穏やかな安堵が宿っていた。
「来ないものか! 明日も、明後日も、毎日だって足を運んでやる! だから、眠ってなどいるな。僕を置いていくなんて、皇太子への不敬だぞ……!」
「ふふふ、……今さら、皇子様ぶるのね。……そんなところが、……可愛い……かも?」
残された全生命力を振り絞るようにして、彼女はおどけて見せた。だが、その声は羽毛よりも軽く、今にも地下の静寂に吸い込まれて消えてしまいそうだった。我は、零れ落ちようとする彼女の意識を繋ぎ止めるように、その細い手を強く、壊れそうなほどに握り締めた。
「タニア、眠るな! 行かないでくれ……! 僕は、僕は、君がいない世界でどう生きていけばいいのか、わからないんだ!」
僕の手に重なった彼女の手。その温もりは、雪解け水のように儚く、指先から少しずつ解けていく。
「……リゲル。私ね、あなたに出会えて、……本当によかったと、思ってるの」
「……タニア?」
「元の世界では、いつも独りで……誰かに期待されることも、誰かに必要とされることもなかった。……でも、この世界に来て、あなたに見つけてもらえて……。それだけで、私の人生は、……ちょっぴりだけ、報われた気がするんだ」
彼女の瞳に、ひと筋の涙が伝った。
「"姫"の使命なんて、本当は……全部忘れて、あなたと二人、……穏やかに生きたかった。……私のいた世界の話をもっとして、……この世界のことも、……もっとたくさん、教えてもらって……」
そこで彼女は一度、言葉を詰まらせ、悲しげに目を伏せた。
「――でも、それはできない。私は"姫"。……この身体の持ち主の……誰かの魂を、……犠牲にして立っているから」
刹那、タニアは残る力のすべてを使って、僕の身体を強く抱き締めた。
漆黒の茨が、僕たちの身体を祝福の鎖のように絡め取る。
彼女の鼓動が、震えが、そして魂の叫びが、直接僕の胸に流れ込んできた。
「ねえ、リゲル。……私ね、あなたにお願いがあるの」
「……なんだ、何でも言え! どんな不条理な願いでも、僕が、僕がすべて叶えてやる!」
「じゃあ、……約束。……このガーランドに、……平和を、もたらしてほしいの」
彼女の声は、もはや耳元でしか聞き取れないほどに微弱になっていた。
「"姫"が戦わなくていい世界。……私とあなたが、……戦場なんて知らない場所で、ずっと一緒にいられる世界。……そんな夢が叶ったなら、……私はきっと、笑って目覚められるから――」
そう言い残して、タニア・カリスト=ブライアローズは静かに、そして永遠に目を閉じた。
それは、目覚める条件として"平和"という、この世で最も困難な対価を要求する、正しく"呪い"のような眠りであった。
「――ああ、やってやる! やってやるぞ、タニア! 僕が、いや――我が!!」
微動だにしない彼女を抱き締めながら、我は絶叫した。
"薔薇の根"の冷たい石壁に、僕の誓いの咆哮が何度も木霊し、重なり、消えていく。
想い人は、もう目覚めない。
我の手には、剣を振るう力も、魔法を操る才もない。
だが。
我はあの日、決めたのだ。
剣が持てないのなら、言葉で世界を斬り伏せればいい。
腕力がないのなら、千の知略で国を動かせばいい。
君が、もう戦わなくていい世界を。
君を戦いの道具として呼び起こさずに済む、穏やかなるガーランドを。
この我が、必ず創り上げてみせる。
それからの我の変容を、周囲は"狂気"と呼んだ。
我は訓練場に姿を見せることを止め、図書室と執務室に籠もった。
古今東西の軍略書を読破し、地政学、帝王学、果ては隣国との極秘交渉術に至るまで、文字通り死に物狂いで研鑽を積んだ。
父ディバルドが、そして最強の騎士たちが頭を抱える難局を、我はわずか数枚の書簡と、人心を操る弁舌だけで解決してみせた。
武勇こそがすべてであったガーランドにおいて、剣を持たずして勝利を積み上げる我の存在は、次第に無視できぬ巨大な"力"となっていった。
いつしか、人々は畏敬と僅かな皮肉を込めて、我をこう呼ぶようになった。
――"棘無し"。
それはかつて、武才なき我を嘲笑うための蔑称であった。
だが、今のその名は違う。
自らの剣を捨てながらも、その智謀によって、誇り高き"薔薇の騎士団"を、そして公国のすべてを従えた、唯一無二の指導者。
我は、タニアとの約束を果たすための"装置"となった。
この国に真の平和が訪れるその日まで。
彼女が、ただの"一人の少女"として目覚められるその瞬間まで――。
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