132話「淡い夢のような」
地下の淀んだ空気の中に、その少女はいた。
無数の漆黒の茨に囲まれながら、彼女は我を見上げ、頼りなく唇を震わせた。
「……私は、タニア。タニア・カリスト=ブライアローズ……だったと思う、確か」
それが、彼女の口から零れた最初の"自己紹介"であった。
我はこの公国ガーランドにおいて、これほどまでにあやふやな物言いをする人間に会ったことがなかった。武の国において、言葉とは断定であり、決意の表明だ。「……と思う」「確か」などという逃げ道を作るような響きは、弱さの象徴として忌避されるものだ。
(……でも、不思議だ。その弱々しい響きが、僕には誰の怒鳴り声よりも心地よく聞こえる)
我は、彼女の座る石段の数段下に腰を下ろした。
「……君、この宮殿の子? 私のところには、あんまり来ないほうがいいよ……たぶん。私の周りのこれは、あんまり……お行儀が良くないから」
彼女が視線で示した茨は、我を威嚇するように小さく脈動していた。
だが、その拒絶を無視して、我は次の日も、その次の日も、大人たちの目を盗み、この静寂の檻へと逃げ込んだのだ。
「……どうして、今日も来たの?」
三度目に訪れた時、彼女は呆れたような、けれどどこか期待を含んだような声で我に問いかけた。
「ごめん。この間の話の続き、聞きたくて……駄目かな?」
「……いいよ。こっちに来て。少しくらいなら話していても大丈夫――かもしれないし」
我は彼女の許可を得ると、茨の隙間を縫うようにして彼女の傍らへとにじり寄った。
それが、僕たち二人の"秘密"の始まりだった。
タニアの話は、我の想像を絶するものばかりであった。
彼女は、この世界とは全く異なる、魔法も騎士もいない異空の地からやってきたという。
「あっちの世界はね、夜になっても太陽の欠片みたいに明るい街があって。馬もいないのに、風よりも早く走る箱型の乗り物がいっぱい走ってるの」
「風よりも早く? まさか。……嘘だ、そんなの」
「本当だよ。……って言っても、私はその速い箱に揺られて、毎日学校に行くだけの、どこにでもいる普通の人間だった……と思うんだけど」
彼女の語る"異世界"は、あまりにも平和で、あまりにも奇妙だった。
そして彼女は、その世界で自らが打ち込んでいたという、"リクジョウ"なる営みの話を聞かせてくれた。
「リクジョウ……。それは、敵を討つための術なのかい?」
「ううん、違うよ。ただ走るだけ。誰よりも速く、一秒の何十分の一を削るために、ただ真っ直ぐに走るの」
我には理解できなかった。
戦のためでもなく、狩りのためでもなく、ただ"速く走る"ことそのものに心血を注ぐという、その純粋すぎる無意味さが。
「私みたいな陰キャがさ、柄にもなく頑張っちゃったんだ。……結局、最後まで大きな大会には出られなくて、ずっと補欠だったんだけどね」
「……インキャ? ホケツ? 何だい、それは」
「……そっか。ううん、なんでもない。君は知らなくていい言葉……だと思う」
彼女は儚く、けれどどこか自分自身を愛おしむように笑った。
(……どうしてそんなに、悲しい目をするんだろう)
我は、何となく理解していた。
宮殿の連中が我に注ぐ、あの"不必要"な物を見る眼差し。
タニアの言う"ホケツ"という言葉は、我にとっての"棘無しの薔薇"と同じ、痛みを伴う記号なのだと直感した。
会話を重ねるごとに、僕たちの距離は縮まっていった。
地上では"無能な皇太子"として振る舞わねばならない我にとって、タニアとの時間は唯一の救いだった。
「……ねえ、リゲル。君は、いつか立派な騎士になるの?」
ある日、タニアが不意に尋ねた。
我は黙り込み、自分の細い指先を見つめた。
「……僕は、騎士になんてなれないよ。身体も弱いし、剣の才能もない。みんな、僕のことを馬鹿にしているんだ」
初めて他人に、本当の弱音を吐いた。
父上や教官たちの前では、虚勢を張って傲慢に振る舞うことでしか自分を守れなかったのに、彼女の前では、ありのままの醜い自分でいられた。
「……そっか。なら、無理にならなくていいよ。私は、走るのが速い君よりも、こうして隣でお喋りしてくれる君の方が好き――かも、しれないから」
"かもしれない"という、いつもの臆病な末尾。
けれど、その言葉は僕の胸に、地上のどんな勲章よりも深く、温かく刻まれた。
(……ああ。そうだ。僕は、騎士になんてならなくていい。皇太子の責任も、ガーランドの未来も、そんなものはいらない)
我には、この冷たくて静かな地下室と、彼女の小さな声さえあればいい。この時は、本気でそう思っていた。
タニアが語る、"アスファルト"の匂いや、夜の"コンビニ"の明かり。行ったこともない異世界の、彼女が見た景色を、我はずっと聞き続けていたかった。
"姫"としての過酷な運命を待つ彼女と、"無能"として見捨てられた我。
二人はきっと、地下の暗闇で手を取り合う共犯者だった。
漆黒の茨が、少しずつ彼女の足首から這い上がり、その自由を奪おうとしていること。
地上の太陽が、我を一人前の人柱として引き摺り出そうとしていること。
そんな現実から目を逸らし、二人きりで、永遠に続くような微睡みの中にいたのだ。
「また明日も、来てくれる?」
「……ああ。約束するよ。必ず、来る」
彼女の白い手に、細い手指を重ねた。
その温もりが、いつか氷のように冷え切ってしまう日が来ることも、当時の我はまだ――知る由もなかった。
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