131話「棘無き記憶」
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我の生まれた公国ガーランドは、騎士の国だ。
この国の土を愛する者は、同時に鉄の冷たさと雪の白さを愛さねばならない。ガーランドの子らは、物心がつく前から、揺りかごの中で剣のぶつかり合う音を子守唄にして育つ。
誰もが木剣を握り、騎士団という栄光の門を潜ることを至上の夢として、その幼き命を研鑽に捧げるのだ。
中には、武の道を志さない変わり者もいる。だが、そんな者は万に一つもいなかった。この過酷な北方の地で生きることは、戦うことと同義だからだ。鎧を纏い、槍を掲げ、吹雪の中に立つ。その気高き姿こそが、ガーランドにおける"人間"の定義であった。
だが、その国の中心、最も高き血筋を引くガーランド家の皇太子として生まれた我は、その定義から無惨に、決定的に零れ落ちていた。
「……はぁ、はぁ、……っ。……もう、無理だよ……」
木剣の重みが、鉛のように腕に食い込む。
わずか十数回の打ち込みで、心臓は早鐘を打ち、肺は熱を帯びた空気を求めて激しく喘ぐ。視界は白く霞み、握力はとうの昔に霧散していた。
我の身体は、一際弱く、病弱だった。人並みの鍛錬さえ、この肉体にとっては死を招く猛毒に等しかった。
原因は、高齢出産にあったのだと、侍医たちは声を潜めて囁き合っていた。父であるディバルド大公は長く子宝に恵まれず、待望の跡継ぎとして我が生を受けた時、父は既に老境の入り口に立っていた。そして、大公妃であった我の母は、この虚弱な息子を産み落とすと同時に、全ての生命力を使い果たし、息を引き取った。
我がこの世で最初に覚えたのは、母の体温ではなく、周囲に漂う死の気配だった。
我には、武の才が欠片もなかったのだ。
非才の皇太子。
その事実は、宮殿の暗がりに潜むネズミたちの間で、密やかに、けれど確実に広まっていった。
陰で囁かれる、屈辱に満ちた渾名。
――"不必要"。
――"棘を無くして生まれた薔薇"。
(……悔しい。僕だって、本当は……)
その言葉を聞くたび、胸には煮え繰り返るような怒りが渦巻いた。だが、当時の我にはそれを受け流す余裕も、言い返すための確固たる実力もなかった。
ちっぽけなプライドが、父に弱音を吐くことを拒ませ、我はただ独りで暗い深淵へと追い詰められていった。
宮殿内での生活は、我にとって針のむしろだった。
父、ディバルド大公は、強き男だった。その武勇と慈愛で国を統べる名君。父は我に対し、一度として罵声を浴びせることはなかった。
それどころか、いつも我の肩に大きな手を置き、「リゲル、お前はありのままでいいのだ」と優しく説いた。
だが、その優しさこそが、僕にとっては最も鋭い刃だった。
父の瞳の奥に潜む、隠しきれない失望と憐憫。
それが、「お前には期待していない」という無言の宣告のようにも思えて仕方がなかった。
毎日、無理やり連れて行かれる訓練所は、自分の弱さと至らなさを、白日の下に晒される処刑場でしかなかった。屈強な騎士たちが、手加減をしながら我を扱う時の、あの侮蔑の混じった同情。
彼らにとって、我は守るべき主君ではなく、ただ"たまたま高い血筋に生まれただけの、壊れやすい置物"に過ぎなかったのだ。
そんな、ある冬の日のことだ。
氷点下の鍛錬場で、我は再び意識を失いかけた。膝をつき、激しい嘔吐を繰り返す我を、教官たちは無表情に見下ろしていた。
「……半刻ほど休憩を取りましょう。これ以上は、お体に――」
そう残した教官の姿が見えなくなると同時、我は――逃げ出した。
(――もう、たくさんだ)
重責も、期待も、皇太子としての務めも。
その全てを雪の中に投げ捨てて、我は宮殿の奥深くへと走った。
背後から呼ぶ声を聞かないふりをして、迷路のような廊下を抜け、我は一箇所の重厚な扉の前に辿り着いた。
(どこでもいい。僕の事を知らない、誰も僕を笑わない、暗い場所へ……)
それは、大人たちが「決して立ち入ってはいけない」と厳命していた、秘密の地下室への入り口だった。
扉は重く、錆びついた取っ手は凍りついていた。
だが、当時の我は、自分を縛る全ての理不尽から逃げ出せるのなら、地獄へでも行きたい気分だった。
力を振り絞り、扉を開ける。
ギギギ、と不吉な音を立てて開いた先には、埃と沈黙が支配する地下回廊が続いていた。
どこまでも深く、暗い。
地上に降り積もる雪の白さとは無縁の、凍てついた闇。
我は壁を伝いながら、一段、また一段と階段を下りていった。
やがて。
通路の最奥に、奇妙な光景が広がっていた。
そこは、無数の"茨"が閉ざした空間だった。
冷たい石壁を這い、天井から垂れ下がりつつある、禍々しい漆黒の茨。それは意志を持っているかのように微かにうねり、侵入者である我を威嚇しているようでもあった。
その茨が集中する部屋の真ん中に、一人の少女が座っていた。
「……誰?」
鈴を転がすような、けれどどこか生気を欠いた声。
息を呑み、足を踏み出す。
そこにいたのは、我が知るどの王侯貴族の息女よりも美しく、そして、我が鏡の中で見る自分と同じくらい――"空っぽ"な瞳をした少女だった。




