130話「決闘」
極彩色の悪夢は霧散した。
ポルカが展開した、不条理の檻が消え去った後、後に残されたのは、甘い砂糖の香りが微かに漂う、崩壊したアークトゥルスの街並みだけだった。
ヴェルギウス・クラインは、雪の上に膝をつき、激しい呼吸を繰り返していた。
心臓を止め、血流を制御し、死を欺いて放った最後の一撃。その代償は、人類の頂点に立つ彼であっても耐え難い重荷となって押し寄せていた。
胸の傷口からは、魔力の混じった血液がどろりと溢れ、銀の鎧を汚している。
(……動け。まだ、終わっていない。宮殿へ……戻らねば)
自らを叱咤し、剣を杖代わりにして立ち上がろうとする。だが、身体の各所から悲鳴が上がる。常人ならば数回は命を落としているであろう損傷。肉体は既に悲鳴を上げ、五感は遠のき始めていた。
「ヴェルギウス卿! なんということだ、帝国の"姫"は……!」
そこへ、街の避難誘導と警備を担当していた公国の騎士が数人、駆け寄ってきた。凄惨な状況と、満身創痍の"到達点"の姿に、彼らは顔を蒼白にさせていた。
「案ずるな。……"姫"は、私が斬り伏せた。……私は、少し休めばまだ動ける。それよりも、民の避難は……正門の戦況は、どうなっている」
「は、はい。避難は概ね完了しております。ですが、卿のそのお身体では……!」
騎士が手を貸そうとした、その時だった。
ヴェルギウスの鋭敏な感覚が、背後に迫る一人の男の気配を捉えた。
「――貴公は」
ヴェルギウスが振り返る。
そこには、一人の青年が立っていた。
全身の鎧はひしゃげ、硝子の瞳には痛々しいヒビが走り、全身から血を流している。
アルト・オレオーン。
アンタレスとの死闘を制し、地獄の底から這い上がってきた若き騎士が、そこにいた。
彼は絶え絶えの息をつきながらも、その視線だけは真っ直ぐにヴェルギウスを射抜いていた。
「流石ですね、ヴェルギウス卿。……あなたならば、"姫"を相手にでも、勝つと信じておりましたよ」
「そうか。だが、そちらも……勝ったのだろう?」
ヴェルギウスの問いに、アルトは微かな、けれど不敵な笑みを返した。
ヴェルギウスは目を見開く。
ほんの数刻前、大公の寝室で向かい合った時とは明らかに違う。一度、絶対的な絶望を実力で撥ね除けた者だけが纏う、静謐な覇気。勝利という劇薬は、青年を一気に、真の騎士へと変貌させていた。
アルトは震える手で聖剣"アルシャイン"を構えた。
「――立ち会いを、あの時の続きをお願いできますか、ヴェルギウス卿」
その言葉には、私情も、憎しみもなかった。
ただ、自らの誓いを果たすため。亡き大公ディバルドとの約束――「ヴェルギウスに一太刀浴びせる」という条件を、この極限状態において果たそうとしているのだ。
「貴様、何を……! ヴェルギウス卿はお疲れだ。貴様のような者に構っている暇は――」
傍らの騎士が遮ろうとするが、ヴェルギウスはそれを片手で制した。
「よい、よいのだ。……丁度いい、貴公には立会人を頼みたい。彼奴と、私の一騎打ちのな」
ヴェルギウスもまた、重い身体を無理やり突き動かし、愛剣を構えた。
いつぞやの、相手を侮った無形ではない。
腰を落とし、切っ先を相手の眉間に向ける。
それは、目の前の青年を一人の敵として、そして一人の騎士として認め、全力で迎え撃つという決意の表明だった。
「――作法は前と同じだ。先に一太刀入れた方が勝ち。……それでいいな、アルト・オレオーン」
「……ええ。感謝いたします、ヴェルギウス卿」
アルトの聖剣は、もはや光を纏っていない。魔の者を相手取っていない今、対魔の輝きを放つ必要もないからだ。
だが、それがただの鉄の棒であっても構わない。
今の彼にあるのは、己の腕と、剣と、一点に凝縮された意志のみ。
一瞬の静寂が訪れる。
周囲の騎士たちは、息をすることさえ忘れ、その場に釘付けになっていた。
崩壊した建物の隙間から、月明かりが二人のボロボロの騎士を照らし出す。
空気の粘度が上がり、チリチリと肌を焦がすような緊張が、死臭の漂う戦場を神聖な試合場へと書き換えていく。
――瞬間、両者が加速した。
「せあぁぁぁぁぁッ!!」
キィィィィィィィンッ!!
鋭利な金属音が一度だけ響き、閃光が爆ぜた。
一瞬の交差。
数瞬の後。
耐えきれなかったように、アルトが膝から崩れ落ちた。
「……あ、……ぁ…………」
アルトの指先から力が抜け、聖剣が雪の上に落ちる。そのまま彼は糸の切れた人形のように倒れ込み、暗い意識の底へと沈んでいった。
「卿! やはり卿の勝ちだ! 勝者は――」
騎士が歓声を上げようとした、その瞬間。
ヴェルギウスは静かに片手を挙げ、それを制した。
彼は剣を収め、自らの頬に手を当てる。
そこには、一筋の細い、けれど確かな切り傷が走っていた。
もし、普通に戦ったのならば、その剣は届かなかっただろう。
だが、アルトの執念は、総身の死力を一太刀だけに集中させ、人類到達点の守りをわずかに、けれど確実に突き破ってみせたのだ。
「……大した男だ、青年。忠義と意地だけで、私の足元にまで迫ったか」
ヴェルギウスは倒れたアルトを見つめ、どこか誇らしげな、微かな笑みを浮かべた。
かつて自分が呪いとして背負った騎士道を、この青年は自らの光として体現してみせた。
「――決闘は、私の負けだ。……後のことは、彼を頼む。彼は……失ってはならぬ者だ」
呆然とする騎士たちを他所に、ヴェルギウスは再び歩き出した。
頬の傷を隠すこともなく、ただ一歩ずつ、重い足取りで黒薔薇宮を目指す。
若き騎士の成長に胸を熱くさせながらも、彼の戦いはまだ終わっていない。
宮殿へ。
姉の残滓を、そしてこの国の未来を守るために。
壊れかけの体で、"到達点"は行く――。




