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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
11章「騎士と青年と凍てつく茨」
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127話「色亡き道程」

 姉が消えたあの日から、私の世界に色は亡くなった。


 後に残されたのは、冷え切った家と、かつて姉が愛用していた古い木剣。そして、私の胸に深く突き刺さったまま、抜くことのできない"誓い"という名の杭だけだった。


 私は、自分が大嫌いなはずの鍛錬場に立ち、その日から剣を振るい始めた。



 朝、夜が明けるよりも早く、氷点下の空気の中で剣を振るう。


 昼、腕が動かなくなるまで振り続け、崩れ落ちる。


 夜、月明かりの下で自分の影を相手に、また一千回の素振りを行う。



 体力の限界など、とうの昔に通り過ぎていた。意識が混濁し、膝が雪を噛む。動かなくなった指を無理やり柄に縛り付け、心臓が止まるのではないかと錯覚するほどの動悸の中で、私はひたすらに刃を走らせた。


 倒れ伏し、そのまま死体のように数時間微睡み、目が覚めればまた剣を握る。


 そんな日々の中に、もはやヴェルギウスという名の少年がかつて愛した星見も、読書も、安らぎも存在しなかった。


 暇さえあれば、私はアークトゥルスの騎士訓練所に通い詰めた。


 門を叩き、そこにいる者たちに手当たり次第、手合わせを申し出た。


「……君が? ブライアローズ家の、本が好きな坊ちゃんだろう?」


 最初、誰もが私を見て笑った。


 剣など一度もまともに振ったことのないような細腕。


 外の光を浴びてこなかった、青白く、まるで病人のような肌。


 震える足取りで木剣を構える私を見て、熟練の騎士たちは鼻で笑い、稽古の合間の余興のように私を打ち据えた。

 私は何度も床に転がされ、泥を舐め、笑い声の中で意識を失った。


 一年が経った。

 私は、どうにか剣を真っ直ぐに振れるようになった。


 私の身体には無数の痣と傷が刻まれ、かつての虚弱な面影は消えつつあった。


 それでも、人々は笑った。


「ああ、ブライアローズ家の坊主か。相変わらず無駄な努力を続けているな。まだまだ半人前だ。いや、それ以下か」


 私は何も答えず、ただ次の相手へと木剣を向けた。



 二年が経った。

 私は、騎士たちと互角に打ち合えるようになった。


 相手の呼吸を読み、重心の移動を察知し、物理的な限界を超えた速度で踏み込む術を、身体で覚え始めた。


 人々は、少しだけ感心したように、けれどやはり笑った。


「ふん、ようやく一人前か。執念だけは認めてやるが、所詮は姉とは違う、才能のない者の足掻きだな」


 私は何も答えず、ただその日の夜も、一万回の素振りをこなした。



 五年が経った。

 私は、もはや騎士団の精鋭たちにさえ勝つことができるようになっていた。


 私の剣には一切の迷いがなく、ただ"最適解"をなぞるだけの、冷徹なまでの正確さが備わっていた。


 人々が、笑うことは少なくなった。


「あれだけ狂ったように鍛え続けているのだ。当然だろう。だが、あいつは"空っぽ"だ」


 人々は私を避けるようになった。


 私は、贅肉を削ぎ落とし、感情を切り捨て、ただ姉との誓いを果たすための"装置"へと変質していった。



 十年が経った。

 もはや、このガーランド公国において私に勝てる者はいなくなった。


 私が訓練所に現れるだけで、空気は凍りつき、最強と謳われた騎士団長ですら、私の前では木偶の坊に過ぎなかった。



 もう、誰も笑わなかった。



 嘲笑も、賞賛も、恐怖さえも通り越し、人々は私を畏怖の念を込めてこう呼ぶようになった。



 ――"人類到達点"。



 己を切り捨て、余分なものをすべて削ぎ落とし、私は誰も到達したことのない極北まで駆け上がった。


 読書への愛も、星への憧れも、熱いスープの味も、すべて捨ててきた。


 それでも。

 それでも、捨てられないものが一つだけ。


 この胸の奥底で、暗く、熱く、澱みのように溜まっている"タニアへの誓い"だけは、どうしても捨て去ることができなかった。



 ある夜。

 私はいつものように、黒薔薇宮の地下、深い闇の中にいた。



 ここは、"いばら姫"――かつて姉だった"何か"が眠る、隔離された領域。


 そこに、一人の少年が忍び込んでいるのを、私は柱の影からじっと見つめていた。


 少年は、まだ幼い。


 これからガーランドという国の重みを一身に背負うことになる、ひどくか細き、震える指先をした青年。


 その名は、リゲル・ヴァント=ガーランド。


 彼は、眠り続ける"いばら姫"の傍らに跪き、何かを必死に語りかけていた。


 本人たちは気が付いていないのだろう。


 自分たちがどれほど危うい均衡の上に立っているかを。


 そして、その二人の密会が、もし露見すれば、この国の秩序そのものが崩壊しかねないことを。


 私は、闇に同化して、その様子を見守り続けた。

 

 私の眼前にいるのは、姉の影法師。


 そして、彼女が自らの魂と引き換えに守りたかった"国"の象徴である少年。

 

(……ああ。そうだ)


 姉は、光の中で消えた。

 ならば、私はその対極――この国を支える、最も深く、暗い"影"でいよう。


 ガーランドという名の薔薇は、鮮やかに、美しく咲き誇る。


 私は、その薔薇の根元で、誰の目にも触れぬ地下の底に根を張り、外敵を、理不尽を、不条理を排除する"根"であれば構わない。


 薔薇を愛でる者はいても、根の泥を慈しむ者はいない。

 それでもいい。


 リゲルが、そしてかつて姉だった者が、この静かな夜を共有できるなら。


 その平穏を維持するためだけに、私の全ての研鑽は捧げられたのだ。



◆◇◆


◆◇◆


 ――ふと、意識が飛んでいたことに気が付く。


 目を開ければ、視界が、飴細工のように歪んでいた。


 口の端から溢れるのは、鉄の味を帯びた、酷く甘い琥珀色のシロップ。


 ポルカと名乗った少女による、不条理な刃の一撃が、私の身体を内側から食い破り、肉体を砂糖菓子へと変えようとしている。


 ああ。

 身体が、動かない。


 内側から結晶化していく魔力が、私の神経を、筋肉を、誇りを奪おうとしている。


 だが。


 半生をかけて、私が削ぎ落としてきたのは、そんな"痛み"や"恐怖"だけではない。


 私は、自らの心を一分(いちぶ)の隙もない――"装置"へと作り替えてきた。


 魔女の砂糖菓子が、この鉄の意志を侵食することなどできはしない。


「……ふう」


 私は、凍りつきかけた肺で、最後の一息を吐き出す。


 瞼を閉じれば、あの日、姉と屋根の上で見上げたアークトゥルスの星が、今も変わらぬ座標で瞬いている。


(姉さん。私は……姉さんとの誓いを、一度だって忘れたことはないよ)


 たとえこの身が、砂糖細工のように脆く崩れ去る運命にあったとしても。


 私が"根"であることをやめることは、決してない。


「……"人類到達点"……か。不条理を前に、なんと……傲慢な、言葉だろうな」


 自嘲気味に、けれど、甘えはなく。

 私は、動かぬはずの腕に、力を込めた。

 


 砂糖の鎖を、意志の鉄で断ち切るために。



◆◇◆

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