126話「姉の背中」
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冬の風は、いつだって肌を刺すような鋭さを持っていた。
ガーランドの北端、アークトゥルスの街外れ。雪に埋もれた小さな鍛錬場で、私はその日も地面に転がっていた。
「……ヴェル、騎士は誰よりも強くないといけないの。強くないと、何も守れないから」
頭上から降ってきたのは、聞き慣れた、けれど妥協を一切許さない凛とした声だった。
視界を塞ぐ雪を払い、顔を上げる。そこには、自分と同じ色の髪を短く切り揃え、木剣を正眼に構えた姉――タニアが立っていた。彼女の瞳は、冬の夜空に輝く一等星のように鋭く、そしてどこまでも澄んでいた。
「……無理だよ、姉さん。僕は、騎士になんて向いていない」
私は震える手で地面を突き、どうにか体を起こす。
ガーランドの下級騎士の家に生まれた、年の近い姉弟。男勝りで活発、大人顔負けの剣筋を見せる姉と、読書と星見を愛し、家の中に引きこもっていたい内向的な私。
正直に言えば、剣を握ることさえ苦痛だった。冷たい柄が手のひらに吸い付く感覚も、打ち合うたびに腕を駆け抜ける鈍い衝撃も、その全てが私を拒絶しているように感じられたのだ。
私にとっての世界は、埃っぽい書庫に眠る古い英雄譚や、冬の澄んだ夜空に整然と並ぶ星々の運行の中にあった。そこには争いもなく、ただ静謐な秩序だけが存在していたから。
「またそうやって逃げる。ほら、立ちなさい。次は私から行くわよ」
タニアは私の泣き言など露ほども聞き入れず、容赦なく踏み込んでくる。
彼女の剣は、速かった。
ただの木剣のはずなのに、彼女が振るえばそれは風を切り裂く鋭い刃へと変じる。私は翻弄され、ただ闇雲に防戦に回るしかない。やがて、私の木剣は弾き飛ばされ、再び雪の中に背中を打ちつけた。
「強くなりなさい、ヴェル。あなたは私の弟でしょう?」
彼女はそう言って、転がった私の鼻先に木剣の先を突きつけた。
叱咤。あるいは期待。
その時の私には、それがただの呪縛のように感じられてならなかった。
夕餉の時間は、私たち姉弟にとって唯一の穏やかなひと時だった。
不器用な父が買ってきた安いパンと、タニアが作った温かなスープ。私たちはささやかながらも、幸せな暮らしを送っていた。
タニアは時折、今日打ち負かした大人の騎士たちの話を面白おかしく聞かせてくれた。
「ヴェル、私ね、いつか近衛騎士団に入るつもりなの。そうしてこの国を、陛下を守るのよ。あなたが安心して本を読めるようにね」
冗談めかして笑う彼女を見て、私は漠然と思っていた。
姉さんはきっと、私とは違う、光に満ちた人生を歩むのだろう。その卓越した剣の才能を、自らの意志で、自らの名誉のために振るい続けるのだろう。
私は、その背中を遠くから見守るだけの、冴えない弟でいればそれでいい。そう、信じて疑わなかった。
――そんな人生が一変したのは、覚悟を決めたような表情をした父が、重い足取りで帰宅したあの日からだった。
「……タニア。お前に、話がある」
食卓を囲む空気は、一瞬で凍りついた。
父が語ったのは、家格を維持するための取引であり、ガーランドという国が生き残るための"犠牲"の話だった。
帝国からの圧力が強まる中、公国にはさらなる"不条理"の力が必要だった。
我が家に届いた白羽の矢。それは、姉に"姫"となるよう迫る、残酷な勅命だった。
私は思わず、椅子を蹴って立ち上がっていた。
「父さん、何を言ってるんだ! 姉さんに"姫"になれなんて……そんなの、狂ってる!」
知っていた。
"姫"になるとは、異界の魂を身に宿すということ。それは、器となる人間の意識を、記憶を、魂そのものを上書きし、消失させることと同義だ。
てっきり、自由奔放なタニアなら、激昂して断るものだと思っていた。
だが、私の隣に座っていた姉は、驚くほど静かに、そして穏やかに微笑んでいたのだ。
「……わかったわ。私でお役に立てるなら、喜んで」
「姉さん、正気か!? どうして、どうして"姫"になんかなるんだよ! "姫"になるのは、死ぬのと同じじゃないか!」
私は彼女の肩を掴み、必死に訴えかけた。
視界が涙で歪む。
だが、タニアは慈しむような眼差しで私の頬に手を添え、事も無げに答えた。
「違うわよ、ヴェル。私は託すの。私の体に宿る誰かが、この国を永劫に守ってくれるように。私が消えても、私の力がこの国を支える礎になるなら、それは騎士として本望だわ」
儀式を前日に控えた夜、タニアは私を誘って屋根の上に登った。
そこは、私が大好きな星見の場所だった。
空には、いつもと変わらぬ星々が輝いていた。
北天に座す、揺るぎなき不動の星。アークトゥルス。
「ねえ、ヴェル。あなたはこの国、好き?」
タニアの問いかけに、私は震える声で即答した。
「……大嫌いだ。こんな寒くて、残酷な国。姉さんを殺して続く国なんて、滅びてしまえばいい」
「そう。……私は、好きよ」
彼女は遠く、雪明かりに照らされたアークトゥルスの街並みを見つめていた。
「この凍てつく空気も、冬の透き通った空も。一生懸命に生きている人たちも。何もかもがずっと、ずーっと続けばいいなって、そう思うの。……ヴェル、あなたは本が読みたいんでしょう? 星を数えていたいんでしょう? だったら、誰かがこの平和を、この国の形を守り続けなきゃいけない」
彼女は私の目を見つめた。
その瞳に宿っていたのは、もはや"姉"としての慈愛だけではなかった。
一人の"騎士"としての、完成された覚悟。
「お願いね。私がいなくなった後も、この国を……この国の人々を、守ってあげて」
「……無理だよ。僕は、そんなに強くない。姉さんみたいに、強くなんてなれないんだ」
私の弱気な言葉を、彼女は柔らかな微笑みで包み込んだ。
「――大丈夫。だってあなたは、私の弟だもの。誰よりも優しくて、誰よりも慎重なあなたなら、きっと誰にも辿り着けない場所に立てるわ」
それが、私たちが"家族"として交わした最期の言葉だった。
翌日。
静謐な祭壇の上で、姉の体に"姫"が降りた。
光の奔流が収まった時、そこに立っていたのは、見慣れた姉の肉体を持った"何か"だった。
"絡んでしまったいばら姫"。
そう呼ばれるようになった彼女の瞳に、もう私の知るタニアの光は宿っていなかった。
彼女は私を一瞥することもなく、冷酷な不条理の王女として歩み去った。
後に残されたのは、抜け殻のような静寂。
そして、私の胸に呪いのように絡みつき、消えることのない"姉との誓い"。
(……ああ。そうだ。姉さんが守りたかったこの国は、私が守るよ)
あの日、読書好きの虚弱な少年は死んだ。
私は、自分が大嫌いな剣を握った。
姉が愛した"国"を守るために。姉が愛した"平和"という不条理を維持するために。




