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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
11章「騎士と青年と凍てつく茨」
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125話「オオカミはオオカミらしく」

◆◇◆


 思えば、最初からクソみたいな人生だった。


 灰色の空しか見えない路地裏。(ドラッグ)の匂いが染み付いた、湿ったベッド。


 奪われるのが当たり前で、奪い返すために誰かを壊す。壊した後に残るのは、自分の中の何かがさらに欠け落ちていく、あの空虚な感覚だけ。


 溶かして、壊して、奪う。


 その先に何があるのかなんて、考えるだけ無駄だった。考えるための頭さえ、空腹と暴力で麻痺していたから。



『――おはようございます、新しい朝ですよ』



 そんな泥濘(ぬかるみ)のような記憶の中でも、あの日の光景だけは、嫌に鮮明に覚えている。


 "姫"として目覚めた日。帝国の辺境にある、ひどく冷たく、けれど清浄な空気の満ちた祭壇。


 酒とドラッグ、そして度重なる凌辱でボロボロに使い潰されたはずの自分の身体は、そこにはなかった。鏡に映っていたのは、今までの人生で夢見ることも許されなかったような、瑞々しく可憐な"少女"の姿。


 そして。


 その傍らで小さな火を携え、聖母のような、あるいは無邪気な子供のような顔で佇んでいた少女。


『どうか、あなただけの物語を。……さあ、"赤ずきん"。あなたの、新しい名は――』


 ――ああ、そうだ。


 アタシは、アンタレス・ヴォルフ=レッドキャップ。


 ララ・ワグナーは、あの日、死んだ。


 それだけでいいし、それだけで満たされていたはずだったんだ。この不条理な力で、自分を脅かす全てを溶かし尽くしてしまえば、アタシの"新しい物語"は誰にも汚されないのだと――。



 ――そう、信じていた。



◆◇◆


 騎士と"狩人"が向かい合う正門前は、もはやこの世の風景ではなかった。


 地面は赤黒い粘体となって脈打ち、周囲の城壁は熱波に煽られて飴細工のように歪んでいる。


「グアアアアアアアアアッ!!」


 咆哮と共に、アンタレスが地を蹴った。


 肥大化した左腕はもはや人の形を留めず、狼の巨爪を思わせる(おぞ)ましい質量へと変貌している。一振りごとに、空間そのものをなぶり殺すような衝撃波がアルトを襲う。


 アルトは、滲む視界の中で、ゆっくりと数えた。


(……一、二、三……。呼吸、心拍、魔力の揺らぎ。……まだ、見える)


 右目――硝子の瞳が、限界を超えた過負荷(オーバーロード)に悲鳴を上げていた。


 視界は血の混じった白濁に染まり、網膜の裏側を直接熱した鉄串で突き刺されているような激痛が走る。


 それでも、彼は冷静だった。


 押し込まれているのは、間違いなく彼の方だ。身体のあちこちは既に砕け、打撲と擦過傷で全身が軋む。


 だが、彼の手の中にある聖剣"アルシャイン"は、呼応するように輝きを増していた。


(……この剣の本質は、対魔の理。……相手が、魔力を暴走させればさせるほど、その拒絶は鋭利になる)


 アンタレスが肉体を強化し、"歪み"を加速させるたびに、アルシャインは彼女を"切除すべき異物"として認識を強めていく。


 刀身に宿る光はもはや純白を超え、理不尽を焼き切るための青白い焔へと変質していた。


(あと少し、あと少しだけ、耐えれば――)


 しかし、その均衡は、長く続かなかった。



 ――パキン。



 不意に、世界の音が止まった。


 アルトの右目、硝子の表面に、決定的な"亀裂(ヒビ)"が入った音。


 一分間という絶対的な制限時間が、残酷な終わりを告げたのだ。


「――が、ああああ……ッ!!」


 釘を打つような痛みが脳を突き抜ける。

 一瞬の停止。


 それは、アンタレスのような捕食者にとって、この上ない"供物"に他ならない。


「死ねッ!! 死ね死ね死ね死ね死ねええええええええッ!!」


 アンタレスがその絶好機を見逃すはずもなかった。


 巨躯を弾丸のように加速させ、唯一残された凶器――巨大な鋏を突き出す。


 回避は、もはや不可能。



 ――ドスッ!!



 硬質な、けれどどこか重い衝撃。


 アンタレスの鋏が、アルトの脇腹を深く、深く貫いた。


 アルトの口から鮮血が噴き出し、背中まで突き抜けた刃が石畳を赤く染める。


 誰の目から見ても、それは決着の一撃。致命的な敗北。


 だが。


「……ようやく、だ」


 血の泡を吐き出しながら、アルトは笑った。


 アンタレスの鋏に自らの肉体を縫い付けられ、逃げ場のなくなったこの至近距離。


「この距離なら……絶対に、外さない――!」


「なっ……!?」


 アルトは右腕を、命の最期の火を燃やすように突き出した。


 聖剣アルシャイン。

 最大まで蓄積された、不条理を殺すための光の槍。


 それが、彼の手から放たれ――。



 ――貫通。

 アンタレスの腹部に、深々と突き立てられた。



 直後、彼女の体内を巡っていた暴走魔力が、アルシャインの光と真っ向から衝突し、内部から爆発的な崩壊を開始する。


「あ、が……あああああああああああああッ!!」


 内側から灼かれる、絶叫。


 それでもアンタレスは倒れず、アルトを道連れにせんと鋏をさらに深く押し込もうとする。


 だが。



 ――不意に、二人の視線が交差した。



 アルトの瞳は、揺らいでいなかった。


 死の淵にあり、肺に穴が空き、視界を失いかけているこの瞬間においてなお。


 彼の瞳に宿っていたのは、濁りのない決意。


 それはまるで、かつて自分が捨て去った"物語"の中にしか存在しない、高潔な主人公のそれのようで。


(……じゃあ、アタシは……何なんだ?)


 アンタレスは、アルトのヒビ割れた硝子の瞳の中に、自分の姿を見つけた。


 そこには、可憐な"赤ずきん"などいなかった。


 どろどろに溶け出した皮膚。不自然に膨張した異形の肉体。憎悪と殺意に塗り潰された、悍ましい形相の怪物。


(……ああ。そうか。アタシは……とっくに――)



◆◇◆


 少女は、知っていたのです。


 己の人生には苦痛しかないことを。


 その苦痛を紛らわせるためには、他人により多くの苦痛を味わわせなければならないということを。


「――じゃあ、アタシの、幸せは」


 気付いた少女は、目を瞑りました。


 どろけていく胃の中で、ただ溶け落ちることが唯一の幸せだと――そう、気が付いたのです。



◆◇◆


 奪う側に回るということは、悪役(ヴィラン)になるということ。


 誰かを守るための力ではなく、誰かを踏みにじるための暴力。


 "赤ずきん"という皮を被りながら、その内側で狼の牙を研ぎ続けていた自分の、あまりにも滑稽な自己矛盾。


 物語のルールは、いつだって残酷に、正しい。


 狼は、最後には腹を割かれ、死ぬ運命(さだめ)なのだ。


 鋏を握る手から、ふっと力が抜けた。


 彼女を支えていた魔力の供給が止まり、歪んでいた筋肉が急速に萎んでいく。皮膚が、肉が、砂のように崩れ落ち、ボタボタと地面に溶け出していく。


 終わりを悟った彼女は、それでも、取り乱したりはしなかった。悪役(オオカミ)悪役(オオカミ)らしく、引き際は弁えなければならない――そう、知っていたから。


 だから、彼女は微笑む。死の淵にあれど、それすらも笑い飛ばすように――!



「……はん。……アンタの、勝ちだよ。……クソッタレ……!」



 剥き出しの牙を見せ、彼女が最期に浮かべたのは、どこか清々しい笑みだった。


 それは、どこかの世界で、どこかの裏路地で。苛烈な世界の荒波に負けぬよう、気高く生きていた誰かのように。


 アンタレス――"赤ずきん"は、ゆっくりと末期の息を吐き出した。


 そのまま、彼女の身体は形を失い、光の粒子となってアークトゥルスの夜風に溶けていく。


 

 彼女の消失と共に、アルトの腹部を貫いていた鋏もまた、霧のように消え去った。


 後に残ったのは、激痛と、噴き出す鮮血。そして、静寂。


「……はぁ、はぁ、……っ」


 勝利の実感など、そこにはなかった。


 アルトはその場に膝をつき、激しい吐血と共に崩れ落ちそうになる。


 意識は遠のき、指先から熱が奪われていく。このまま眠ってしまえば、二度と目覚めることはないだろう、そんな恐れを超えた、甘い微睡みの誘惑が彼を包む。


 けれど。

 彼はまだ、止まらなかった。


(……まだだ。まだ、終わって……いない)


 自分の勝利を確認するためではない。

 誇りを示すためでもない。


 ただ、この命がまだ燃えているうちに、成し遂げなければならないことがあった。


「……の、くてぃあ、さま……!」


 うわ言のように、最愛の主の名を呼ぶ。


 震える足で、一歩。

 血溜まりの中に剣を杖代わりにつき、また一歩。


 勝ち鬨を上げる者はいない。讃える喝采もない。


 ただ、月明かりに照らされた正門前。一人の騎士が、自らの血で描かれた道標を辿りながら、深い闇の中へと消えていった。


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