121話「貫く氷刃」
轟音。氷壁が砕け散る、耳を劈くような音。
一点に全運動エネルギーを集中させた"涙"は、アダーラが展開した幾重にも重なる最高硬度の氷層を、紙細工のように容易く貫通した。
その雫型の閃光は、最短の軌跡を描き、アダーラの胸元へと吸い込まれる。
命中。
衝撃波に煽られ、アダーラの華奢な身体が大きく後ろへと仰け反った。彼女の瞳から光が消え、まるで糸の切れた人形のように、その動きが完全に停止する。
(……やった!)
確信に近い喜びが、ノクティアの胸を焦がした。
"雪の女王"という不条理な凍結を打ち破るのは、情熱を宿した"ゲルダの涙"。"姫"を構成する物語そのものにアプローチしたこの一撃は、アダーラの核を撃ち抜いたはずだ。
畳み掛けるべく、ノクティアは残された魔力で"硝子の剣"を生成し、その切っ先を突き出した。
「これで……おしまいよ!」
踏み込み、一気に距離を詰める。無防備なアダーラの喉元へ刃を突き立てようとした、その刹那。
「――っ、グラスベル、待て! 引けッ!!」
背後から響いたリゲルの、喉を裂くような警告。
それが届くよりも早く。
光の消えてのアダーラの瞳に、冷酷なサファイアの輝きが戻った。
「――あ」
声にならなかった。
視界の端で、アダーラの指先がしなやかに動く。
直後、床から噴き上がった巨大な氷柱が、跳ねるような速度でノクティアの腹部を貫いた。
「が、はっ……!?」
内臓を抉り、背中まで突き抜けた衝撃。激痛と共に、全身の体温が急速に奪われていく。
ノクティアの身体は無残に跳ね飛ばされ、冷たい石畳の上を転がった。硝子の剣を杖代わりに、どうにか上体を起こそうとするが、傷口から流れる鮮血さえもが即座に凍りつき、肉体を氷の地面に縫い付ける。
「……いまのは、いたかったよ。おねえちゃん」
アダーラは、衣服に空いた風穴を気にする様子もなく、ゆっくりと、優雅に体勢を立て直した。
彼女の胸元。心臓を貫く直前で、煌めく"オランダの涙"は、彼女自身の肉体が瞬時に凍結させた"氷の枷"によって完全に静止させられていた。
アダーラは指先で、虹色に輝く雫を摘み取ると、ゴミを捨てるように地面に落とした。カラン、と虚しい音が響く。
「でも、ひとつまちがい。"なみだ"じゃ、わたしはたおせないよ」
「……な、なんで……。あなたは、"雪の女王"じゃ……。涙こそが、あなたの……不条理を……っ」
「……だって、なみだは、わたしがながすものだもの」
アダーラのその言葉に、ノクティアは凍りついた思考の中で、弾かれたように目を剥いた。
どこに、勘違いがあったのか。気が付いたとしても、既に遅い。対"姫"戦闘では、ほんの僅かなすれ違いが、最終的には致命の差を生み出すことになる――。
それを、痛感させるように。アダーラは無表情のまま、トドメを刺すべく手のひらに魔力を集中させた。
勝負は決した。絶望という名の絶対零度が、執務室を支配する。
「ふふ、じゃあね、がらすのおねえちゃん。……わたしの、かち」
射出される、死の氷柱。
ノクティアは反射的に目を閉じた。
――キィィィィィンッ!!
途端、響く金属音。
訪れるはずの衝撃の代わりに、ノクティアの耳に届いたのは、荒い、けれど誰よりも気高い男の呼吸音だった。
「……っ!? リゲル……!?」
顔を上げれば、そこには背中を丸め、壁に掛けられていた装飾用の古剣を手にしたリゲルの姿があった。
彼は元々、ヴェルギウスのような戦士ではない。剣筋は素人同然、握る手さえも震えている。それでも、彼はノクティアの前に立ち塞がり、放たれた初撃の氷柱を、剣の腹でどうにか弾き飛ばしていた。
「巫山戯るな……ッ! 我にあれだけ大きな口を叩いたのだぞ、貴様は!」
リゲルは肩で激しく息をしながら、凍てついた顔の半分を歪ませ、背後のノクティアを叱咤した。
「その貴様が、最初に折れてどうするというのだ! 貴様は、貴様には成し遂げるべきことがあるのではないのか!」
「……リゲル。逃げて……! あなたじゃ、今のあの子には……!」
「黙れ! 誰に口を利いている! 我はリゲル・ヴァント=ガーランドだッ!」
放たれる二撃目。アダーラが指を振るたびに、氷の弾丸がリゲルを襲う。
彼は装飾用の剣を盾にし、必死にそれを防ぐ。だが、重厚な氷の衝撃に、戦士ではない彼の手首は悲鳴を上げ、ついには剣が弾き飛ばされた。
後方へと飛んでいく剣。武器を失ったリゲル。
アダーラは、もはや興味を失ったかのように、さらに巨大で、鋭利な氷柱を形成した。
「……おにいちゃん、じゃま。おねえちゃんといっしょに、おやすみなさい」
それでも。
リゲルは一歩も退かなかった。
彼は震える足で地を踏み締め、無防備な胸を晒したまま、最後の一瞬までノクティアを見据えて叫んだ。
「――やるんだろう、ノクティア・グラスベル!! 貴様の掲げた理想を、思い出せ……!!」
刹那。
放たれた氷の刃が、リゲルの胸を真っ向から貫いた。
鮮血が、白銀の世界に鮮やかな紅を撒き散らす。
"棘無し"と呼ばれた男の身体が、まるで季節を終え、手折られて打ち捨てられた花のように、ゆっくりと崩れ落ちていく。
ノクティアの瞳に映るその光景は、音のないスローモーションのように、いつまでも、いつまでも長く、残酷に焼き付いていた。




