119話「"涙"」
「ええい、ノロマめ、こっちだ! 遅れるな!」
先頭を行くリゲルの力強い声が飛ぶ。
それに急かされるように、私は石造りの廊下を、心臓の鼓動が耳元で鳴るほどの速さで駆け抜けていた。
背後からは、音もなく世界を塗り潰していく"静寂の冷気"が迫ってくる。
廊下のあちこちには、執務室までの道中でアダーラの毒牙にかかった騎士たちが、彫像のように凍りついて転がっている。
ある者は剣を抜こうとした姿勢のまま、ある者は仲間に異変を知らせようと口を開けたまま。その表情は、苦痛よりも先に“理解不能な死“に直面した驚愕に染まっていた。
「あ、り、リゲル様! 大変です、何者かに――」
曲がり角から飛び出してきた警備中の騎士が、こちらに気づいて声を上げる。リゲルは足を止めることなく、その騎士に向かって雷鳴のような怒声を浴びせた。
「ええい、五月蝿い! 報告などは後回しだ! 全員、直ちに宮殿内から退却せよ! 宮内に、帝国の“姫“が侵入している!」
「は、はっ!? 侵入……しかし、我ら騎士団がここを捨てては……」
「たわけが! わからんのか、あれは貴様らが束になっても勝てる相手ではない! いいか、絶対に戦おうと思うな! これは逃走ではない、再起のための撤退だ! 一人として、無駄に命を散らすことは許さん、行け!!」
慄く騎士の背中を押し出すようにして、リゲルは先を急ぐ。
その横顔は、ディバルド大公を殺された屈辱と、愛する城を蹂躙される怒りに歪んでいた。けれど、その唇から漏れる指示は、どこまでも冷静に“民と騎士の命“を優先したものだった。
(……驚いたわ。てっきり、プライドのために『宮殿を枕に死ぬまで戦え』なんて、無茶を言う人だと思ってたのに)
私の視線に気づいたのか、リゲルはほんの少しだけ気恥ずかしそうに顔を背けた。
彼は不器用なのだ。他者を見下すような傲岸不遜な態度の裏に、誰よりもこの国の平穏を重んじる、血の通った君主としての責任感を隠している。
「ふん、間抜けめ。何を感心したような顔で見ている。先ほども言っただろう、ガーランドの騎士は無謀な戦はせんのだ」
そう吐き捨てるリゲルの声は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
誤魔化すように速度を上げたリゲルが、走りながら私に問いかける。
「貴様こそ、だ。ただ無様に逃げ回っていたわけではあるまいな。見つかったのか? "ドウワ"とやらの知恵にて、あの化け物を打破する方法は」
「ええ。……恐らく、あの子の魂の根源は――"雪の女王"よ」
"雪の女王"。
それは、私たちの世界に伝わる童話の一つ。雪の女王に攫われ、心が凍てついてしまった少年を救い出す、とある少女の冒険を描いたものだ。
「……ふん、知っているぞ、"聖典"の一つだな。つまり、奴の力を形作っているのは、その物語だと?」
「そうね。ただ、話の中で"雪の女王"は、その存在の強大さの割に、実はあまり詳しく語られることがないのよ。どちらかというと、物語を動かすのは女王に想い人を攫われた、一人の少女の方で――」
私の言葉を遮るように、周囲の気温が急激に、、牙を剥くように低下した。
壁の装飾が、ピキピキと音を立てて白く爆ぜる。追っ手がすぐそこまで来ていることを示す、死の前兆。
「――ええい、来るぞ! 講釈はいい、あるんだろうな、あのアダーラとかいう娘を黙らせる勝ち筋が!」
リゲルが眉を寄せ、背後の廊下を睨みつける。
私は力強く頷いた。
不条理な氷に閉ざされた世界を、内側から食い破るための応手は、私の知識の中に一つだけ存在していた。
「ええ、あるわ。……でも、準備が必要。今の私一人では、たぶん成し遂げられない。あなたの助けがいるの」
「我の助けだと? 言え、何が必要だ」
「ねえ、リゲル。この宮殿の厨房でも、あるいは巨大な暖炉でもいいわ。今すぐ、高熱の火を扱える場所へ案内して!」
「……火? 冗談はやめろ。松明程度の火では、奴の冷気の前に一瞬で掻き消されるだけだぞ」
疑念を露わにするリゲル。無理もない。氷を溶かすために火を求めるなど、あまりに当たり前で、あまりに無力な足掻きに見えるだろう。
けれど、私の狙いは"氷を溶かす"ことそのものではなかった。
吹き荒ぶ吹雪の中では、彼の言う通り、生半な炎など、正しく風前の灯だろう。しかし、"雪の女王"には、あらゆるものを溶かすことができる"熱"が登場する。
私は、不敵な笑みをリゲルに向けた。
「大丈夫。火で直接戦うんじゃない。……その火を使って、"涙"を作るのよ」
彼の表情が、訝るように歪む。
「涙……? 何を言っている、狂ったか?」
「狂ってないわよ。女王の冷酷な氷さえも打ち砕く、最強の熱を秘めた硝子の弾丸。それを用意する必要がある」
「それが、"涙"というやつだと?」
「そうよ。……いい、リゲル。アダーラに勝つためには、流さなきゃいけないの。この世で最も硬く、そして――最も熱い"涙"をね!」
宮殿の深奥へと続く回廊。
私の瞳には、絶望を貫くための"物理"と"物語"とが、かつてないほど鮮明に結びついていた。




