117話「Glass on Ice」
執務室の空気は、既に呼吸をするだけで肺が凍りつくような極低温に達していた。
私は吐き出す息さえも白く凍る中で、魔力を極限まで練り上げる。
「……っ、これならどう!」
展開したのは、無数の"硝子の棘"。透明な凶器が、空気を切り裂いてアダーラへと殺到する。だが、対する彼女は、まるでお手玉でもするかのような気楽さで手を振った。
「ふふ、おんなじだね」
瞬間、彼女の周囲に同数の"氷の棘"が形成された。硝子と氷。光を反射し合う二つの結晶が空中で激突し、互いを砕きながらキラキラと無機質な残骸を撒き散らす。
「――まだ、まだあっ!」
私は間髪入れず、硝子細工の巨大な腕を創り出す。魔法に裏打ちされた、強大な握力。しかし――。
「なあに、次はこれ?」
事も無げに、アダーラは同じ形の、巨大な氷の腕を創り上げた。空中で組み合った二つの腕――先に砕けたのは、硝子の方だった。
「――っ、今ッ!」
魔法の衝突で生じた視界の歪みに紛れ、私は手元に"硝子の剣"を生成し、一気に距離を詰めた。魔法戦で埒が明かないなら、懐に潜り込んで斬る。これまでの修羅場で培ってきた、生存のための泥臭い選択だ。
しかし。
「へえ、おねえちゃん、うまいね。……こうやるのかな?」
アダーラもまた、私の動きをなぞるように、美しく、そしてより鋭利な"氷の剣"を作り出し、私の最初の一撃を完璧な動作で受け流した。
キィィィィィィィン――!!
耳を劈くような硬質な金属音が響く。
そこで私は、残酷な事実に気づかされた。
私の"硝子"と、彼女の"氷"。どちらも無機質な結晶を操り、物質を具現化する能力だ。使い方も、応用も、驚くほど似通っている。
けれど、決定的な違いがある。彼女の氷には、触れるだけで全てを停止させる"冷気"という絶対的な付加価値が備わっているのだ。
"氷"は"硝子"の純粋な上位互換。
だとするのなら、そんな相手に、一体どうやって――。
「あ、ゆだん、してる。がらあき」
思考の隙間を突くように、アダーラの指先がリゲルを指した。
放たれたのは、巨大な氷柱。
彼では、避けられない。彼は"王"たる器ではあるだろうが、戦士ではない。ましてや、人の域を超えた、"姫"の魔法など――。
「リゲル!!」
私は思考を放り出し、リゲルの前に飛び込んだ。硝子の盾を瞬時に最大出力で展開する。
――ドォォォォン!!
凄まじい質量。受け止めた衝撃が肩を突き抜け、盾が粉々に砕け散る。
その直後、視界に白い影が滑り込んできた。
「おねえちゃんは、こっちだよ」
アダーラの手のひらが、私の腹部にそっと添えられた。
瞬間、巨大な氷塊が膨張するように出現し、私の体は紙屑のように後方へと弾き飛ばされた。
「……っ、が……はっ……!!」
石壁に背中を叩きつけられ、肺から空気がすべて絞り出される。
衝撃以上に、当たった箇所から熱を奪われる感覚が恐ろしい。感覚が麻痺し、指先が思うように動かない。
「……っ、グラスベル! しっかりしろ!!」
リゲルの悲鳴のような声が遠くに聞こえる。
私は震える腕でどうにか体を起こしたが、ダメージは明らかだった。これまでの戦いで負ったどんな怪我よりも、この"一撃"の重みと冷たさは深刻だ。
「……ねえ、おねえちゃん。あんまりつよくないね」
アダーラは、残念そうに肩を竦めた。
その瞳には嘲りも悪意もない。ただ、道端に落ちている石ころの硬さを確かめるような、無機質な事実の確認があるだけだった。
「アダーラがしってるなかだと、まんなかのちょっとしたくらい。……あんまりはやくないし、ちからもつよくない。まほうだって、あんまりつかえてないよね?」
「……あら、そう? まだまだ、本気は……出して、いないのだけど……!」
強がりが、虚しく室内に響く。
アダーラは小首を傾げ、三日月のような笑みを浮かべた。
「そう。なら、はやくだしてよ、ほんき」
刹那、室内の温度がさらに数段階、一気に低下した。
砕けた窓から吹き込む雪が、彼女の周囲で意思を持つように渦を巻き、形を成していく。
形成された氷が、節くれだった四肢を持ち、氷の鎧を纏った"人の形"へと変わっていく。
その異様な光景に、私は既視感を覚え、戦慄した。
「……っ、私の、"シンデレラ城の舞踏会"と同じ……!?」
レグルス砦。あの絶望的な状況下で、周囲の死体を利用して強引に発動させた私の切り札。
けれど、目の前の彼女は死体など必要としていなかった。ただの空気から、雪から、無限の兵隊を作り出していく。
「――はやくしないと、しんじゃうよ」
アダーラが、ゆっくりとこちらを指差す。
一斉に動き出す、氷の兵士たち。
硬質な足音が、死のカウントダウンのように執務室に鳴り響く。
硝子の姫としての自負も、これまでの経験も、すべてを飲み込むような圧倒的な"数"と"質"。
私は、震える手で折れかけた硝子の剣を握り直した。
目の前に迫る白銀の軍勢は、まるでもう一人の、そして完成された私自身を突きつけられているかのようだった。




