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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
10章「お菓子と瞳と棘無しの記憶」
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116話「無邪気と殺意」

◆◇◆


 床を転がり、私の足元で止まった氷の塊。


 数刻前まで温かな眼差しで息子を案じていた、ディバルド大公の変わり果てた姿に、私は呼吸を忘れた。視界が激しく点滅し、喉の奥からせり上がる悲鳴を、辛うじて押し殺す。


「……なんてことを。あなた、自分が何をしたか、わかっているの……!?」


 震える声で問いかける。だが、目の前の美しい女性は、まるで、意味もわからぬままに咎められた子供のように、不思議そうに小首を傾げるばかりだった。


「……? わかってるよ、おしごと。このでっかいおしろのなかにいるひとを、みんなこおりづけにするのが、わたしのおしごと」


「――っ、そうじゃなくて、あなたねぇ!」


 あまりにも噛み合わない対話に、私は激昂して一歩踏み出そうとした。だが、それを制したのは、隣に立つリゲルの凍りついた手だった。


「……よせ、グラスベルよ。無駄だ。恐らく、あ奴にはまともな情緒などない。外見(ガワ)はともかく、中身は年端もいかぬ子供なのだろう」


 リゲルの言葉に、私はハッとした。


 "姫"は、私たちが元いた世界から呼んだ魂を、この世界の人々に上書きする形で生まれる。ならば、外見と中身の間に絶望的なまでのギャップが生まれても、何らおかしくはない。


 目の前の彼女は、善悪の区別もつかないまま、世界を滅ぼし得る強大な力を与えられてしまったのだ。


 その無邪気さは、夏の日の子供が蜻蛉の羽を捥ぎ、蛙を石で叩く、あの無垢で底知れない残酷さと同質だ。道理も交渉も、彼女の前では意味をなさない。


 ――道理で物事を考えようとする私とは、最悪の相性だ。


「……リゲル、怪我は平気? その、耳が……」


「舐めるな。血の一滴も出ておらん。それに、耳の一つや二つ、この国を守る代償としては些末なことよ」


 リゲルは凍てついた顔の左半分を押さえ、痛みに耐えながら立ち上がった。その傷口からは、流れるはずの血さえもが凍りつき、薄暗い執務室の中で不気味に輝いている。


「……とはいえ、我の玉体に傷をつけたのだ。相応の報いは受けてもらうとするがな」


 彼は気丈に、、かつての傲慢な皇太子として振る舞い、扉の向こうに向かって大声で命じた。


「者ども! ここに大公殺しの大罪人がいる! 即時死刑で構わん、引っ捕らえろ――!」


 だが。


 彼の凛烈たる号令に応える者は、一人としていなかった。


 廊下からは、騎士の足音も、鎧の擦れる音も、誰かの叫び声すらも聞こえてこない。ただ、冷たい風がひゅう、と鳴るだけの、死の静寂。


「おっきなこえ、だしてもだめだよ」


 女性は、血の通わぬ、透徹した氷のような声で告げた。


「おへやのそとにいたきしさまも、もう、ねむってるから。ここには、わたしと、あなたと、そっちのこだけ」


 平然と言い放つ。けれどそれは、命を奪ったという宣言。外に何人の騎士が控えていたかはわからないが、一人や二人ではないだろう。


 否――最悪、この黒薔薇宮で息をしているのは、私たち、という可能性もある。


「……貴様、何者だ。誰の差し金で、ここに来た?」


 リゲルが凄みのある声で殺気を放つ。しかし、対する彼女は、まるでおやつの時間でも聞かれたかのように、のんびりと答える。


「わたし? ええと、どっちのなまえをききたいの? いまのなまえはねぇ……」


 呑気な口調。だが、私は見逃さなかった。


 彼女の白い指先に、大気中の水分が凝集し、鋭利な"死"へと変質していくのを。


「リゲル、伏せて!!」


 彼女の手が、吸い込まれるような速度でリゲルの胸元へ伸びる。


 私は反射的に二人の間に割って入り、自らの魔力を"盾"として練り上げた。


 ――ガキンッ!!


 硬質な音と共に、彼女の凍てつく指先が、私の展開した硝子の盾に衝突する。


「あら、きれい。あなたはがらすなんだね。わたしのこおりと、おんなじくらい」


 防いでなお、骨の髄まで凍りつかせるような極低温の魔力が、シールド越しに私の腕を襲う。

 強い。


 アンタレスは、強さに驕っていた。

 アルゴラは、強かったが不安定だった。


 付け入る隙があった二人に比べ――彼女には、贅肉(ムダ)がない。


 これまで対峙したどの"姫"よりも、その魔力は洗練され、研ぎ澄まされていた。反射的に、私は理解する。


 まともに打ち合えば、こちらに勝ち目はない。この少女は、存在するだけで世界を凍らせる"零度"の化身だ。


「……なまえ」


 私の盾を軽やかに弾き飛ばし、蝶のような動作でバックステップを踏んだ彼女は、粉々に割れた窓から差し込む冷たい月明かりを背景に、ぽつりと呟いた。



「そう、なまえ。アダーラっていうの。……ねむくなるまで、よろしくね?」



 彼女――アダーラは、キラキラと輝くダイヤモンドダストの中に立ち、微笑んでいた。


 その瞳には、リゲルに向けられた真っ直ぐな、そして混じり気のない"殺意"だけが、静かに宿っている。


 執務室に舞う氷の粒が、私たちの視界を白く染め上げていく。

 

 かつて最強の盾を誇ったガーランドの宮殿は、今や一人の少女が作り出した、巨大な棺桶へと変わり果てていた。


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