113話「お菓子の家」
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『――ねえ、ヴェル。私ね、この国が大好きなんだ』
記憶の中の姉は、いつだって陽だまりのような温かさを纏っていた。
誰よりもよく笑い、誰よりも聡明で、そして――誰よりも気高く、強かった。
ガーランドの厳しい冬を溶かすような彼女の後ろ姿。それは、私の頭の中に、今も鮮明な色を保ったまま残り続けている。
『お願いね。私がいなくなった後も、この国を……この国の人々を、守ってあげて』
それは願いであり、呪いであり、そして私がこの身を剣に捧げるための唯一の理由となった。
魂が"物語"に上書きされ、私の知る姉がいなくなったあの日から、私の時間は止まったままだ。
けれど、彼女が遺した言葉だけは、今も私の胸の奥で、鼓動よりも確かに、そして強く脈打っている。
なにより、彼女の言葉はまだ――私の中で、熱を放っていた。
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視界は、どろりとした極彩色の甘さに塗り潰されていた。
閉ざされた"お菓子の家"の内部。香ばしい焼き菓子の匂いと、鼻をつくような煮詰まったシロップの香りが、肺の奥まで侵食してくる。
ヴェルギウスは、揺らぐ空間の先に浮かぶ一人の少女を、冷徹な双眸で見据えた。
「……貴様、何者だ」
低く響く問いかけに、少女は大袈裟に首を傾げてみせた。
彼女の腕には、自分と瓜二つの姿をした精巧な人形が抱かれている。
「へえ? 何者、って、私の名前? ……そんなの覚えてないわよ。ねえ、お兄ちゃん?」
少女は、愛おしそうに人形に向かって問いかけた。
すると、少女が動かしているはずの人形が、カクカクとした不自然な動作で口を開いた。そこから漏れ出たのは、少女の地声とは似ても似つかない、しゃがれた少年の声だった。
「ははは、忘れっぽいなァ、ポルカ。君の名前はポルカ・レダ=ヘリックス――だろウ? 自分の名前くらい、ちゃんと覚えておかなきちゃダメだっテ!」
「そっかぁ、そうだったねえ。ありがと、お兄ちゃん!」
少女――ポルカは、狂気的な腹話術を一人で演じ終えると、その虚ろな、焦点の合わない瞳をヴェルギウスへと向けた。
「だってさ、おじさん! 私、ポルカって言うらしいの!」
ヴェルギウスは、その奇怪なやり取りに眉一つ動かさず、ただ静かに佇んでいた。
相手が"人"の理から外れた存在であることは、その立ち居振る舞いから瞬時に理解した。会話に意味はない。あるのは、排除すべき障害という事実のみだ。
彼は迷うことなく、腰に帯びた愛剣の柄に手をかけた。
「……そうか。ポルカと名乗る少女よ。悪いが火急ゆえ、一太刀で沈めさせてもらうぞ」
言葉の終わりと、踏み込みは同時だった。
深く屈んだ姿勢から、爆発的な脚力で中空へと跳び上がる。
人には見切れぬ、神速の初太刀。
魔力を持たぬ身でありながら、純粋な技と筋力のみで到達した、人類の極北。その一閃は、確かにポルカの細い頸を捉えるはずだった――。
――ガツン!!
――凄まじい衝撃と共に、ヴェルギウスの視界が反転した。
ポルカの首を撥ねるはずだった彼の体は、なぜか真横の壁に叩きつけられていた。
「……ッ!?」
受け身を取り、即座に体勢を立て直す。
おかしい。彼は確かに、最短距離で"上"に跳んだ。だが、結果として彼の肉体は"横"へと放り出されていた。
切っ先とポルカの距離は、一ミリたりとも縮まっていない。
「無理だよぉ、真っ直ぐ私のところに来ようとしても。この"お菓子の家"からは、誰一人として逃げられないもの」
ポルカは、空中に座るようにして脚をぶらつかせながら、クスクスと笑った。人形の"お兄ちゃん"が、その笑い声を補足するように吠える。
「ギャハハハ! そうそウ、ポルカの言う通りサ! パンくずの道標でもあるならいざ知らズ、魔女の森は、歩いて出られやしないんダ! 一歩進めば二歩下がり、右に行けば左に落ちる。それがこの家のルールなんだヨォ!」
(――空間の歪曲か。珍妙な技を使う)
ヴェルギウスは、冷徹に状況を分析する。
ガーランド最強の矛として君臨してきた彼は、過去に幾度も"姫"の不条理と対峙してきた。
不条理には、常に法則がある。
目の前の空間は、物理的な直進を拒絶し、方向感覚を撹乱するように構築されている。
(私自身の存在そのものを捻じ曲げるような干渉ではないようだ。ならば、純粋な殺傷能力は低い。となると、狙いは――)
すぐに答えは出た。
彼女の役割は、自身をここに留めておくための"足留め"だと、ヴェルギウスは推測する。
宮殿、そして正門。外で起こっている異変に彼が駆けつけるのを、この甘い檻で遅延させる。それこそが、敵の狙いに違いないと。
ならば、一刻も早くここを出なければ――そう思考を巡らせた、その刹那。
「――っ」
ヴェルギウスの鋼のように鍛え上げられた右肩を、鋭い"何か"が掠めた。
硬質な音と共に、衣服が裂け、肌から一筋の血が流れる。
視線を走らせると、そこには歪んだ空間を自在に旋回する、小さな影があった。
それは、一羽の鳥だった。
透き通った、飴細工の鳥。
宝石のように美しいそれは、翼の端が剃刀のように研ぎ澄まされており、甘い匂いを振り撒きながら、空間の歪みを"泳ぐ"ようにして再びヴェルギウスへと向かってくる。
「ふふふ! まだまだあるわよ、たあんと召し上がれ! こんがり焼く前に、たくさん食べて、肥えてもらわなきゃね?」
ポルカが指を鳴らす。
直後、天井や壁の影から、十、二十、五十……数え切れないほどの"飴細工の鳥"が姿を現した。
四方を囲む、ガラス細工の羽ばたき。
空間が捻じ曲がり、どこから攻めてくるかも予測不能な蜜の檻の中で、ヴェルギウスは静かに剣を正眼に構え直した。
「……なるほど。ただの檻ではなかった、ということか」
熱を帯び始めた部屋の中で、ガーランドの"到達点"は、無数の煌めく刃に包囲されていた。




