112話「輝く勝機」
(――勝機は、ゼロじゃない)
肩で息をしながらも、アルトの思考は急速に冷え切っていく。
目の前に立つ赤ずきんは、まさしく災厄そのものだ。理をねじ伏せる膂力、全てをドロドロに溶かす溶解の魔力。普通に戦えば、数秒と持たずに肉の塊に変えられるだろう。
だが、アルトには武器がある。
そのうちの一つがこれ――失われた右眼窩に宿った、銀色に輝く"硝子の目"。
知らぬうちに宿り、己の血肉として開花させたその瞳は、今や本物の目を遥かに超える解像度で世界を切り出している。相手の筋肉の収縮、魔力の微かな揺らぎ、そして飛来する散弾の軌道。
この目が視えている限り、近接戦闘において、アルトが一方的に打ち負かされることはない。
――そう、視えている、限り。
「――いつまで保つか、ってとこだろ?」
不意に、アンタレスが楽しげに、けれど確信を持って問いかけてきた。
彼女は巨大な鋏を肩に預け、泥を跳ねさせながら一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「アンタのその目。帝国でも似たようなやつ、見たことがあるよ。"姫"の力を植え付けた"種"から芽生える、紛い物の奇跡だ」
「……それに、答える必要はないな」
「答えてもらわなくってもわかるってぇ! だってお前さ、今、その目から魔力がダダ漏れだもんよ!」
アンタレスの瞳が、獲物をいたぶる子供のように被虐的に細められた。
「……でもさあ、そんな便利なもん、ずーっと使いっぱなしにしときゃいいのに、多分今は"スリープモード"だろ? 出し惜しみしなきゃ、アタシの鋏は避けられないもんなぁ」
「……"すりーぷもーど"というのはわからないが。だが、手の内を晒さないのは騎士の基本だ。それにも、答える必要はないだろう?」
「いいさ、勝手に類推すっから。んでもって、ギリのギリまで追い込まれないと使えない――。ここまで考えりゃ、アンタのその"目"には、何らかの重い制約があるってことくらい、間抜けなアタシにもわかるさ!」
図星を突かれた衝撃が、アルトの心臓を叩いた。それを表情に出さないよう、彼は奥歯を噛みしめる。
アンタレスの推測は、残酷なまでに正確だった。
アルトの"硝子の目"には、致命的な欠陥――いや、対価が存在する。
(――こいつの言う通りだ。勝負は……一分間)
人間の脳は、本来、不条理な魔力の奔流をそのまま処理するようにはできていない。"硝子の目"によって加速された視覚情報を処理できるのは、アルトの精神力を持ってしても、連続でわずか六十秒が限界だった。
それを一秒でも超えれば、眼球が内側から弾けるような激痛に襲われ、最低でも二日間は光を失うことになる。
だからこそ、アルトは、この目の力を"致命的な一瞬"にのみ解放することにしていた。それが、ギエナや王国の騎士たちと共に訓練を重ねた末の結論だ。
だが、眼前の敵は"一瞬"で片付くような相手ではない。
長期戦になればなるほど、目は限界を迎え、肉体は溶解の脅威に晒される。
避け続けるだけの戦いに、未来はないのだ。
「……気づいているんだろう? アンタのその目が潰れるのが先か、アタシがアンタを溶かすのが先か。――ねえ、どっちだと思う!?」
アンタレスが地面を蹴った。
熱を帯びた泥を撒き散らし、赤い影が迫る。
アルトは逃げなかった。
一歩も、後ろへは退かない。
賭けることができるのは、もう、"これ"しかない。
彼は右目を再び銀色に燃え上がらせると同時に、手にした無骨な剣を正眼に構えた。
「……そうだな。どちらかと問われれば、その答えはとうに、決まっている!」
アルトの声から、迷いが消えた。
彼が握る剣が、銀の瞳に呼応するように、鈍い光を放ち始める。
警戒するように、アンタレスの足取りが、僅かに鈍った。それを見逃すことなく、手にした剣が光を放つ。
それは、アルトの剣閃に従い伸びていき――赤い狩人の身体に突き刺さった。
「――なッ!?」
アンタレスの瞳が、驚愕に歪む。慮外の攻撃、さらに、"硝子"ではない、明らかに異質な魔力の気配。
間髪入れず、アルトはさらに横薙ぎの一太刀を放った。それは首を切り落とす最短の軌道を描くはずだったが、咄嗟に持ち上げられた銃身に阻まれ、斜めに逸れていく。
しかし――剣先から迸った光が、真紅の頭巾の端を焦がしていた。
「――なんだよ、それ。この世界、そんなのもアリなの?」
訝るように、アンタレスが語尾を上げる。それは、単なる疑問ではなく――彼女もまた、不条理への憤りを滲ませているようだった。
「……ああ、そうだな。これには答えてやるとしようか」
アルトは手にした剣を、アンタレスに見えるようにして掲げる。
それは、かつて"不落の獅子"と呼ばれた父、タラゼド・オレオーンが戦場で手にし、そしてその刃に湛えた光に恐れをなして、一度も抜くことがなかったとされる業物。
彼は知る由もないが――それは、父と同じ、異界の空に浮かぶ、鷲の星座の傍らに輝く星の名を冠した一振り。
「聖剣――"アルシャイン"。お前を弑す、剣の名だ」
その刃から、真紅の夜を切り裂く、強い輝きが放たれた。




