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間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
10章「お菓子と瞳と棘無しの記憶」
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109話「凍える死」

 私は、砕けた窓の外を凝視したまま膝をつくリゲルに、静かに視線を向けた。


 この国最強の矛と盾を失い、傲慢な自信を粉々に砕かれた男。その背中は、今はただの、恐怖に震える青年にしか見えなかった。



 ――けれど。



「……何だ、ノクティア・グラスベル。その目は」


 数秒の沈黙の後、リゲルが低く、押し殺したような声で呟いた。


 彼が顔を上げた時、その瞳には既に、先ほどまでの絶望を焼き切るような鋭い光が宿っていた。


「見くびるな! 我は"棘無し(ニードレス)"、リゲル・ヴァント=ガーランドだ! この程度の苦難、数え切れぬほど乗り越えてきた! この程度で、我が沈むと思うなよ!」


 彼は荒々しく立ち上がると、震える伝令の騎士に向かって、割れんばかりの号令を飛ばした。


「第一騎士団は正門の援護へ回れ! 警備隊と連携し、これ以上の侵入を阻め! 第二騎士団は市街の巡回と避難誘導の増員! そして第三から第五までの騎士団は、この黒薔薇宮を死守せよ! 特に――地下の"薔薇の根"には、誰一人として近付かせるな!」


 リゲルの怒声に応えるように、控えていた騎士たちが一斉に動き出す。一糸乱れぬその迅速な展開。死と隣り合わせの極北で、彼らがどれほど苛烈な訓練を積み重ねてきたか、その一端が垣間見えた。


 リゲルは、自らの動揺を完全に塗り潰すように、私の方を向き直った。


「ええい、貴様もだ、ノクティア・グラスベル! 貴様も、王国の"姫"なのだろう! 客分とはいえ、この国が滅べば貴様らの交渉も水の泡だ。他人事ではあるまい。ここは力を貸してもらうぞ!」


 その言葉には、特使への配慮も、皇太子としての余裕もなかった。だが、そのなりふり構わぬ必死さに、私は微かな高揚を感じていた。


 そうだ。傲慢で、不遜で、けれど誰よりもこの国を愛している。彼は、こうでなくてはいけない。


「何よ、さっきまであんなに凹んでたくせに。立ち直るのが早すぎて、少し呆れるわ」


「五月蝿いわ! とかく、今は戦力が要るのだ! フォーマルハウトでの活躍とやらを、このアークトゥルスでも見せてもらうぞ!」


 リゲルが、強引に私の手を取らんばかりの勢いで言い放つ。



 その瞬間だった。




「――じゃあ、あなたは、どうするの?」




 執務室のどこからか、鈴を転がすような、けれど一切の温度を感じさせない声が響いた。


「……ッ!?」


 リゲルが異常に気づき、反射的に振り返る。


 だが、その時には既に、そのたおやかな指先は彼の眼前にまで迫っていた。

 

 気配がなかった。魔法の予兆さえなかった。


 まるで、最初からそこに影として存在していたかのように、人影はリゲルの背後を奪っていた。


 顔面に触れようとする白い掌を、リゲルは限界以上の反応速度で身を捻り、どうにか(かわ)す。


 そこに立っていたのは、スラリと背の高い一人の女性だった。


 凍てついたサファイアのような瞳に、彫刻のように遊びのない、完璧に整った顔立ち。一目で絶世の美女だと分かるが、その美しさは生命の温かさを一切拒絶しているようだった。


 彼女は、その彫像のような見た目には似合わない、あどけない子供のような口調で語りかけてくる。


「あなたは、どうもできない。だって……ここでおしまいだから」


 凄まじい殺気。いや、それはもはや殺意という指向性さえ持たない、絶対的な"死"そのものの放射だった。


 私の肩の上で、アルフェッカがこれまでにないほど激しく慄き、声を震わせる。


「……嘘。……こんなところに、"雪の女王"が出張ってくるの……!?」


 アルフェッカの言葉の真意を問おうとした、その時。


 苦悶の呻き声と共に、リゲルが激しく膝をついた。


「が……っ、あ、あああぁぁぁ……!!」


「リゲル!?」


 リゲルが顔を上げる。彼の顔面の左半分は、触れられたわけでもないのに、蒼白く凍てついていた。皮膚は霜に覆われ、血管が凍りついたように黒ずんでいる。


 ――カラン。


 乾いた、硬い音が床に響いた。


 落ちたのは、石でも装飾品でもない。


 完全に凍りつき、感覚を失って千切れ落ちた――リゲルの、左の耳だった。


「……なんで、よけるのよ。おしごと、はやくおわらせたいのに」


 女性――まるで、彫像のような彼女は、不満げに首を傾げた。


 まるで、遊びの邪魔をされた子供のような無邪気さで。


 そして彼女は、もう片方の手に隠していた"それ"を、ゴミでも捨てるような無造作な動作で、私たちの足元へと投げ捨てた。


 ゴロリ、と重い音を立てて転がってきたのは、氷の塊。

 

 私は、自分の呼吸が止まるのを感じた。

 

 それは、数刻前まで、私たちに"倅を救ってくれ"と優しく微笑んでいた、あの老王の顔だった。

 

 完全に凍りつき、苦悶の表情さえ浮かべる暇もなく奪われた――ディバルド大公の首。


「……ひとつ、もうおわったの。それ、あなたのおとうさんでしょう?」


 彼女は、氷の瞳を細めて微笑んだ。

 

「とってもさむそうだったから、もう、ねむらせてあげたわ。……つぎは、あなたのばん」


 執務室の中に、死を運ぶ、白い息が満ち溢れる。


 凍てついた死とともに――ガーランドの誇りは、一瞬にして氷点下へと叩き落とされた。


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