108話「開戦、ガーランド防衛戦」-前
――ズ、ズゥゥゥゥン!!
空気を震わせ、内臓にまで響くような重低音。
執務室の窓ガラスは粉々に砕け、その向こう側、正門の方角から巨大な火柱が夜空を焦がしているのが見えた。
「な、何だ……。何が起こったというのだ……!」
リゲルが、呆然と机に手をつきながら呟く。
先ほどまでの傲慢さはどこへやら、彼の顔は雪のように白く、唇が小刻みに震えていた。
「リゲル様! リゲル様はおられるか!」
扉を蹴破らんばかりの勢いで、別の伝令が飛び込んできた。全身煤まみれで、鎧のあちこちが熱で歪んでいる。
「正門に……"赤ずきん"率いる、帝国の侵攻部隊が……! 奴ら、再び攻めてきました!」
「馬鹿な……っ。日に二度も攻めてくるなど、前例がない! まだ、あの野良犬と打ち合ってから、数刻と経っていないぞ!?」
リゲルが絶叫するように問い返す。
その隣で、私の肩に乗ったアルフェッカが、冷ややかに、けれど鋭い眼光を火柱へと向けた。
「……なるほどね。わざと時間を空けず、撤退と再襲撃を繰り返す。そうすることで『日に二度は来ない』という勝手な慢心を植え付け、思考を停止させたかったんでしょうね。狡猾だわ……。本当の狙いは、正門の破壊そのものではない」
「……それ、どういうこと?」
「……陽動よ。敵の真打は、もう別の場所から牙を剥いているわ」
アルフェッカの警告。しかし、動揺の極致にあるリゲルには、その言葉は届いていなかった。彼は狂乱気味に、部屋の隅に控えていたヴェルギウスを指差した。
「ええい、構わぬ! ヴェルギウス、行け! ガーランドの誇りを見せてやれ! あの野蛮な小娘を、今度こそ完全に排除するのだ!」
「……御意」
ヴェルギウスが静かに頷き、一歩前へ踏み出す。
「待って! ここから正門までは、走っても相当な距離があるわよ!? それまで門の兵たちが持ちこたえられるかどうかも……!」
私が慌てて止めようとすると、ヴェルギウスは粉々になった窓枠に足をかけ、静かに私を振り返った。
「――問題ない。"直線"なら、すぐだ」
言うが早いか、彼の足元で、空気が爆ぜる。
次の瞬間、彼は窓から体を投げ出し、アークトゥルス上空に跳び上がっていた。そのまま、黒薔薇宮を囲む外壁を足場に、更に加速する。
それは魔術による飛行ではない。純粋な脚力と、空間の極致を捉える武の理。
彼は屋根から屋根へ、あるいは中空を蹴るようにして、凄まじい速度で戦場へと突き進んでいく。
「何よあれ……。人間じゃないわね」
アルフェッカが呆れたように舌を巻く。
人類到達点、ヴェルギウス・クライン。彼がいれば、あるいは……そんな一筋の希望が、私たちの脳裏をよぎった、その時だった。
中空を駆け抜けていたヴェルギウスの目の前で、不意に空間が"歪んだ"。
――ドォォォン!!
大気を震わせる轟音と共に、空中に巨大な"壁"が出現した。
それは石でも鉄でもない。こんがりと焼き上げられたビスケット、色鮮やかなアイシング、そして粘りつくようなキャラメルで装飾された……巨大な焼き菓子の壁。
「……ッ、何、あれ。急に、壁――!?」
執務室からその光景を眺めていた私は、思わず叫んだ。
漂ってくるのは、先ほどから鼻先を掠めていた、あの狂おしいほどに甘い、死の匂い。
「……仔細ない」
ヴェルギウスの声が、遠くから響く。
彼は空中で身を翻し、腰の剣を抜き放った。一閃。空間を断ち切るほどの鋭い一撃。
だが、その刃は焼き菓子の壁に食い込み、粘つく飴細工に絡め取られるようにして……停止した。
「な……っ!?」
初めて、ヴェルギウスの瞳に驚愕の色が走る。
その直後、上空から鈴を転がすような、無邪気で残酷な声が降ってきた。
「あらあらあらあら、そんなもので斬れるわけないじゃない。ねえ、お兄ちゃん」
「そうだネ、ポルカ。"お菓子の家"は脱出不可能なんダ。怖ぁい怖ぁい、森の奥でサ」
焼き菓子の壁の頂上に、一人の少女が座っていた。
彼女は自分と瓜二つの姿をした、等身大の人形を愛おしそうに抱き上げ、人形の声を腹話術のように操りながら、一人二役で会話を繰り広げている。
その気配は、隠しようもない。
"姫"、理を歪める、異世界の怪物だ。
「……っ、よりによって、アンタレス以外の"姫"が潜んでたの……!?」
私の戦慄に応えるように、ヴェルギウスの周囲に四方からお菓子の壁がせり上がり、彼を完全に囲い込んだ。
それはまさしく、迷い込んだ子供を二度と逃さない"お菓子の檻"。
「――小癪!」
ヴェルギウスは壁を蹴るようにして跳び上がり、踏み越えんとする。しかし、それを嘲笑うように、虚空から出現した屋根が、彼を覆い隠した。
数秒と経たぬうちに、この国最強の剣士は――その内側に囚われ、姿を消してしまった。
「な、なんだと……!? ヴェルギウスが、捕まったというのか……!?」
リゲルが膝から崩れ落ちる。
"いばら姫"に頼らずとも、この国を守る。その要としていた、最強の盾にして、最強の剣。
人類の到達点は、あまりにも呆気なく、その身を封じられてしまったのだった。




