107話「爆発」
◆◇◆
その部屋は、いつもひどく冷えていた。
鋭い棘が幾重にも重なり、外界から隔離された静寂の檻。そこに佇む銀髪の少女だけが、俺にとっての"本物"だった。
「ねえ、リゲル。私、この世界で君にだけは何でも話せる……のかも」
少女――タニアが、欠伸の後に滲む涙を指で拭いながら、夢を見るような瞳で語ってくれた話。
この大陸のどこを探しても見つからない、不思議な異界の風景。
馬よりも早く、鉄の塊が走る"ジドウシャ"。
夜の中でも太陽のように明るく、どんな品物も買える"コンビニ"。
手のひらの上の薄い板で、遠く離れた誰とでも繋がることができる"スマホ"。
そして、少女がかつて命を燃やしていたという――"リクジョウ"とやらの話。
「……戻りたい、のかなぁ。わかんないや、わかんない。何もかも、夢の中みたいでさ……。あっちにいた自分も、今ここにいる自分も……全部、誰かが書いた小説を読んでるみたい」
彼女は、笑いながら泣いていた。
その涙の熱だけが、俺が触れることのできる唯一の"本物"だった。
彼女はもう、目覚めない。
彼女の魂は、あの日語ってくれた"ジドウシャ"や"コンビニ"があるという遠い世界へ、再び帰ってしまったのだろうか。
あるいは、この醜い茨の中に、今も独りで閉じ込められているのか。
――もう一度、俺は、彼女に会いたいのだろうか?
わからない。もう、わからない。
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◆◇◆
不意に、思考の縁が乱暴に引き裂かれた。
執務室の重厚な扉が、ノックもなしに勢いよく明け放たれる。
「……何用だ、ノクティア・グラスベル。我はまだ、入室の許可を与えた覚えはないぞ」
リゲルは不機嫌さを隠そうともせず、卓上の書類から顔を上げた。
そこには、息を切らせたノクティアと、その背後に眼帯を外したアルト、そして沈痛な面持ちのヴェルギウスが立っていた。
「それどころじゃありません、リゲル皇太子! 今、この街は窮地にあるんです。どうか、私たちのお話を聞いてください!」
「くどい。どうせお前が伝えに来たのは、先ほどあった門前での騒ぎだろう」
リゲルは鼻で笑うと、興味なさげにペンを動かし始めた。
「ふん。自分の飼い犬が少し噛まれただけで、随分と声が大きくなるものだな。ヴァルゴ王国の教育とは、随分と情緒的なものらしい」
「っ……知っているんですか? 正門で、何があったのか……!」
「既に報告は受けている。……だが、それだけだ。もう手は打った。正門を固める兵の数は、平時の倍に増やしてある。連中が一日に二度も、同じ場所を攻めてきた例はない。今は闇雲に動かず、構え、備える時だ」
「構え、備える……? そんな余裕、もうこの国にはないんじゃないですか!?」
ノクティアの叫びに、リゲルのペンがピタリと止まった。
"棘無し"の異名とは裏腹の、敵意を隠さない瞳で、ノクティアを射竦めるように睨みつける。
「余裕がなければ、作るまでだ。……そもそも、ヴェルギウスがいればここまでの被害は出なかった。どうやら、先ほどまでは些事に構っていたようだがな」
「……」
「わかったら、貴様らは速やかに宿に戻れ。……ああ、医務室の飼い犬も、忘れずに連れて帰れよ。我が宮殿は、手負いの犬を保護する犬小屋ではないのでな」
しん、と。
部屋の空気が凍りついた。
背後のアルトが拳を震わせ、ヴェルギウスが何かを言いかけて口を閉ざす。
けれど、それよりも先に。
「――ああ、もう。……あったまきた」
――ぷつん、と。
何かが、切れる音がした。
「いい加減にしなさい、あんた、何様のつもりよ!」
「な……っ!?」
それまでの礼儀も、特使としての立場も、全てを投げ捨てた凄まじい絶叫。
ノクティアはリゲルの机を思い切り叩き、腰を浮かせた皇太子の鼻先に指を突きつけた。
「いい!? あんた、目の前のものに惑わされすぎなのよ! 『日に二度は攻めてこない』? そんなの、狼の常套手段じゃない!」
「何を……っ、離せ、無礼だぞ貴様!」
詰め寄るノクティアの剣幕に、さしものリゲルもたじろぎ、椅子の背に身を預ける。
だが、ノクティアの怒りは止まらない。
「いいから聞きなさいよ! 今の状況を童話で教えてあげるわ。……あんたが呑気に森を歩いている間に、おばあちゃんはもう、オオカミに食べられてるのよ!」
「何の話だ、貴様……」
「"赤ずきん"の話よ! とっくの昔におばあちゃんが成り代わって、ベッドの中に潜り込んでるのに、呑気にお土産の話なんてしてる場合!? 狩人なら、分かりやすく目に見えるものだけじゃなくて、部屋の中に漂うケモノの匂いに気が付けって言ってんの!」
ノクティアの瞳が、至近距離でリゲルを射抜く。
その瞳には、怒りだけではない。もっとクリアな感情が滲んでいた。
自分の顔色を伺い、地雷だけは踏まぬようにと、恐れながら物を言う家臣や他国の外交官とは違う。
そう、これは、"本物"の――。
「……いいわ、そこで、ずっとそうしてなさいよ! 少女が胃の中でどろけきって、お腹を鋏で裂いても、手遅れになるまで――!」
その言葉を、物理的な衝撃が遮った。
正門の方角から響く轟音。それは、先ほど門前の警備隊を全滅させた戦闘音よりも、遥かに大きなものだった。
――鋼鉄の都市に、崩壊の足音が迫っていた。
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