106話「砕けた鬣」
宮殿の廊下を駆け抜ける。肺が凍りそうな冷気を吸い込み、喉が痛い。
夢中で駆けた私たちが辿り着いたのは、無機質な石壁に囲まれた宮殿の医務室だった。扉を開けた瞬間、私の鼻を突いたのは、清潔な薬草の匂いを塗り潰さんとする――生々しい血の匂いだった。
「ギエナ……っ!」
部屋の中央、硬い寝台に横たえられていたのは、ボロボロに引き裂かれた姿のギエナだった。
百戦錬磨の彼が纏っていた頑丈な外套は無惨に焼け焦げ、露出した肌には、何らかの高熱……あるいは"溶解"に晒されたような無惨な痕跡が残っている。
「ひっ、ひぐっ……ノクティア様……アルト……っ」
寝台の傍らで、シャウルが震える手でギエナの大きな手を握りしめていた。彼女の服も血で汚れ、目は真っ赤に腫れ上がっている。
「シャウル、何があったの!? 宿で大人しくしていなさいと言ったはずでしょう?」
「そ、そうだったんすけど……。ギエナさんが、急に『外が騒がしい、少し様子を見てくる』って……。あたしも引き止めたんすけど、あの人、聞かなくって……」
シャウルが声を詰まらせながら、断片的な状況を話し始める。
「……それで、その後はどうしたの?」
「わたし、行っても足手まといになると思ったから、待ってたんす。そうしたら、ガーランドの騎士がお嬢様を探しに来たっす。お嬢様はいないって伝えたら、誰でもいいから来てくれって。そして――」
「――この状態の、ギエナのところに連れてこられた、ってところね」
シャウルは無言で頷いた。普段は飄々としている彼女も、流石に堪えているようだった。
「……硝子の魔法の"種"が使えたのは、幸運だったわね。もし、これを持たぬ生身で相対していたら、今頃は骨までドロドロに溶かされておしまいだったわ」
私の肩から滑り降りたアルフェッカが、ギエナの胸元に輝く"硝子の獅子"の残滓を見つめ、険しい表情で呟いた。
「……幸運、だなんて。こんなに酷い怪我なのに」
私は、ギエナの浅い呼吸を聞きながら拳を握りしめた。
アルフェッカはギエナの傷口を検分しながら、その視線を窓の外……いまだ燻る正門の方へと向けた。
「この傷……。今の"赤ずきん"は、完全に物語の"歪み"に飲み込まれてしまったようね」
「歪み……? でも、"姫"の物語は元々……」
「ええ、例外なく歪んでいるわ。けれど、あの子は、手放してはいけない"自分という核"まで壊してしまったんじゃないかしら」
アルフェッカの声は、どこか冷徹な観察者のようでありながら、微かに同情の色を含んでいた。
私は思い出す。
あのレグルス砦での戦い。追い込まれた"赤ずきん"が変貌した、"狩人"の姿。
そして、『私は"赤ずきん"でいたかった』とも口にしていた――彼女は、"赤ずきん"でいることを手放してしまったのだ。
童話の主役からは外れ、けれど、存在はその物語の主題に固定され。
物語を完結させることもできず、ただ破壊の衝動だけを撒き散らす不条理――まさか、そんなものに。
「……そのことは、あとで考えましょう。とにかく今は、ギエナを助けなきゃ……!」
「分かっているわよ、少し、力を使うわね」
アルフェッカは自らの銀色の長い髪を一条、するりと引き抜いた。その髪が金色の魔光を帯び、ギエナの傷ついた肌へと吸い込まれていく。
血管を伝うようにして光が全身を巡ると、ギエナの青白かった肌に、僅かばかりの赤みが差した。
「……僅かだけど、魔力を流し込んだわ。これで、魂が剥がれ落ちるのだけは食い止められるはず。……さあ、目覚めなさい、不器用な戦士」
魔力の注入と同時に、ギエナの瞼が動く。
「……ガハッ、ゴホッ……!」
血の混じった咳き。
彼は焦点の定まらない瞳を彷徨わせ、何かを掴もうとするように虚空へ手を伸ばす。
「ギエナ! 私よ、ノクティアよ!」
「お、おじょ……う……様……」
彼は私の顔を認めると、苦しげに顔を歪めながら、折れた指先で私の腕を強く掴んだ。その力は驚くほどに弱く、私は涙を堪えるのに必死だった。
「そ、外……だけじゃ、ねえ……。連中、な……。もう、な……」
「外だけじゃ……って、ギエナ、それは!?」
問い質そうとしたが、彼の瞳からは急速に光が失われていった。
限界まで魔力を使い果たした肉体が、深い眠りへと沈んでいく。
「……っ、ギエナ! ギエナ、起きて!」
「……無駄よ。今は眠らせてあげなさい。……けれど、今の言葉。無視はできないわね」
アルフェッカが、私の肩に戻りながら宮殿の奥……リゲルが座す執務室の方向を睨みつけた。
「『外じゃない』……。帝国の連中、ついに本気を出してきたみたいね。もう、伏兵が潜り込んでいるのかも」
「……じゃあ、正門のアンタレスは囮……?」
「か、或いは、消耗させるのが目的でしょうね。狂った不屈の"姫"を退けるのは、それこそ、"到達点"でもなければ、これだけの犠牲を払うわ」
「そして、ヴェルギウスの体力だって、無限じゃない……ってことね」
私の肌を撫でる冷気が、一段と鋭さを増していく。
この凍てつく街の何処かに、次の脅威が潜んでいる。
皇太子、リゲルは気が付いているだろうか? この、喉元まで迫った刃に――!
「……行きましょう、アルト。リゲルに伝えなきゃ。この国は……アークトゥルスは、私たちが思うより、ずっと危ないところにいるわ!」
「はい、ノクティア様!」
私たちは、横たわるギエナをシャウルに託すと、弾かれたように部屋を飛び出した。




